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otomeguの定点観測所(再開)

文芸評論・文化評論・思想・社会科・国語表現・性文化・スポーツ観戦・科学・飲み食い・与太話 【一部、性的に過激で頭のおかしな記事があります】

2016SFセミナーレポートその1 本会「クロスメディアの作家たち」

SF ファンタジー ライトノベル アニメ 特撮 イベント 表象文化 ノベライズ 映画 現代思想 思想 同人誌

 さて、それでは、SFセミナーのレポートにいこうと思います。ここから「定点観測所」本格再開です。ただし、今回はきちんとメモを取っていないので、記憶のみに基づいた不確かなレポートかもしれません。内容に不備がある場合は、ご容赦いただければ幸いです。

 

 

クロスメディアの作家たち】

 本会企画1コマ目は、鈴木力さんが司会で3人の作家さんを呼んで、小説と他メディアの作品との関わりについて語った企画です。登壇した作家さんは、三島浩司、大樹蓮司(前島賢)、吉上亮の3氏でした。では、それぞれの作家さんについて、トークの対象となったノベライズ作品と、それにまつわる話について見ていきます。

 

【三島浩司】

 

ウルトラマンデュアル (TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE)

ウルトラマンデュアル (TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE)

 

  今年の1月に早川から出た、(TSUBURAYA×HAYAKAWA UNIVERSE)の第2弾です。ウルトラマンデュアルは小説オリジナルのウルトラマンです。映像作品のような勧善懲悪ではなくウルトラマンと他勢力が宇宙で勢力を競い合っていて人間は中立的な存在であること、ウルトラマンと怪獣が戦う際に「飛び地」という他に被害が及ばないための中立地帯が設定されていること、怪獣と戦う際に発生する周囲の被害の様子がかなりリアルに描かれていることなど、いわゆる「お約束」を前提にした映像やノベライズとは一線を画しています。次のリンク先でも触れられていますが、『ウルトラマン妹』などとは根本的にノリが異なります。

www49.atwiki.jp

 

 

ウルトラマン妹 (スマッシュ文庫)

ウルトラマン妹 (スマッシュ文庫)

 

  飛び地の設定については、世界中のいろいろなところで怪獣を出現させた方が楽しいけれども、被害の拡散や対応を考えると収拾がつかなくなるので、出現地域を限定させて対応しやすくしたのだそうです。東京・練馬が飛び地であるという設定ですが、練馬が飛び地となったのは、東京メトロ有楽町線副都心線という2本の地下鉄が走っているので、鉄道を使って補給をしやすいからだそうです。作中では、守備隊の設定がバックアップの人員などまで描かれているうえ、戦闘の描写についても周囲の被害の状況などまで含めてかなり細かくなされています。確かに、たかが数名の守備隊・警備隊に地球の防衛を任せるという描写は不自然極まりないものかもしれませんが。基地が1つ吹っ飛ばされただけで、地球を防衛する部隊がいなくなってしまうんですからねー。

【怪獣に滅ぼされた警備隊】

www.youtube.com

 三島さんは「不器用な作家」で「自分のやり方を変えられない」そうで、ノベライズにおいてもこれまでの自分の創作のやり方を貫いた結果、映像作品としてのウルトラマンとは一線を画した『デュアル』という作品に結実したそうです。設定については完成するまで円谷プロに伺いを立てなかったそうですが、幸い、円谷プロのチェックではほとんど修正が入らなかったため、三島作品としてのオリジナリティを維持できたようです。

 

【大樹蓮司(前島賢)】

 

  大樹蓮司さんは本名の前島賢名義のほうが通りがいいかもしれません。ライトノベル作家であり、またライトノベルや周辺文化の評論で名の知れたライターさんです。『楽園追放』は一昨年公開されたニトロプラスの映画で、死亡した前「定点観測所」でも一応レビューしましたので、2点再掲します。

rakuen-tsuiho.com

【当時のレビューをキャッシュより再掲】

 結論から言えば、非常に面白かったです。また年末から年始にかけての当ブログ恒例・極私的回顧の中で触れることになると思いますが、恐らく本年度ベストアニメの一角。アニメ映画で久しぶりに本質から楽しむことができました。

 ストーリーは極めて素直な直球です。ネタバレは避けますが、サイバースペース、惑星上での探索、終盤のバトル、ヒロインが地上に馴染んでいく心の変容など、わかりやすい内容をシンプルにつなぎ合わせています。そして、メインキャラクターを絞り込むことで余計な描写を削ぎ落とし、ストーリーの疾走感を爽快なものにしています。

 演出の質感は『メガゾーン』『バルドフォースエグゼ』などの懐かしの80年代OVAを彷彿とさせます。しかし、かつての作品が世界をディストピアに追い込んでいたのに対し、『楽園追放』は非常にポジティブなメッセージになっています。かつ安易な善悪二元論に陥らず、中立的な視点で描かれているため、主人公サイドにも対立するサイドにも第三者的視点からも移入して読み解くことのできる、非常に見通しの良い物語構造になっています。

 個人的には、アンジェラ・バルザックが最後に見せる気迫のバトルが見ものだと思います。サイバースペースから追放されて意地と気迫で肉体を動かす彼女の姿には、目を見張るものがあります。

 今年ラストを飾るにふさわしい良作です。まずは先入観なしで劇場に足を運び、体感して欲しい作品です。

 

【某所に発表したエッセイの再掲】

『楽園追放』より アンジェラ・バルザックの潜勢力


 アンジェラ・バルザック。彼女は、おそらくは自分の信念のために、そして不注意のために、あるいは他のディーヴァ市民からは幻想的と捉えられるであろうアルカイスムによって、時代錯誤的に楽園における生活を台無しにした人物である。人格が電脳化されているからといって、人間の生はその中で消費され尽くしてしまうわけではない。ごく当たり前のこの事象に対して、電脳化された市民及び頭脳は決して理論武装を解くことはない。進化したとされる意識/無意識は全能であり強力である。電脳のあり方は人格が身体に翻訳されることに徹底的に抵抗する。
 いずれにせよ、人類の進化というものは、電脳においても地上においても本来的には人類をより高みへと継承していくというフェーズに属している。電脳化された人類であればその情報を自己のメモリー(あるいは楽園のメモリー)のうちで増殖させていればよいことだが、身体を有する人類においてはその人格情報は身体を介してそこにある・今ここにある。アンジェラ・バルザックの場合、パーソナルメモリーがマトリクスとして物理的に生成されて、彼女の人格を身体に引き止めている。彼女の存在は電脳に? それとも身体に? 否、アンジェラ・バルザックという固有の殻の内に。
 人格というものの一般的な真理においては、人格とはすなわち安定した堅固で信頼できる存在であり、人格は耐久性を備えており、損傷なくヴァーチャルからリアルワールドへ、あるいはリアルからヴァーチャルへと、いささかの瑕疵なく伝えられるということになるのだろう。しかし、アンジェラ・バルザックが生誕したディーヴァにおいて、そして彼女がリアルとヴァーチャルを行き来するそのプロセスにおいて、彼女を彼女たる人格に結びつけている組紐、この唯一の組紐は、ディーヴァ的な真理という、真理の真実性、あるいは真理の意味論的モチーフが恣意的に剥奪された状態で、アンジェラ・バルザックという人格の無事なものや汚されていないものの不可触性は、神聖なものとされるディーヴァの法、さらには平たく言えば恣意的な上位者の意思によって擬似宗教的につなぎとめられているだけでしかない。とはいえ、この組紐はほとんど無数と言える人格や身体のモチーフ、あらゆる快楽や感情などをつなぎとめている。その例は際限なく挙げることができるだろう。この組紐は恣意的でありながら無限性を有しているのである。無数の組紐が仮想世界において共鳴し合っている。アンジェラに限らず無数の人格が、次々と輝いていく共鳴に沿って、際限なく投影されている。その投影は、仮想化された人間の生において、つまり自分という無数の種の洞窟において、途中で幾重にも反射され照射されることを繰り返すことで、増幅されている。諸々の組紐はお互いを認識できないわけではないが、まずは自己という固有の性を仮想ではあるが与えられ、認識を超えたところで交差され、しかし本質を見極めることができない近視眼的ないし盲目的なものとなる。組紐については盲いた者の方が自覚しやすく、仮想空間というテクストの織り糸と同様に、結局は認識不可能・翻訳不可能な位相にとどまる。誰も決して、この組紐をディーヴァという檻の外へと持ち出すことはなく、その組織全体、拡張することも縮小することもない停滞した人類の運命の外へと持ち出すこともないだろう。ディーヴァの住人たちは、楽園という幻想のもとに、自分の人格が決して自分のものではなく、自分ものものではないということはないにしても、否、それゆえにこそ、社会的な檻の中での転回に生を委ねているのである。彼らはその生を楽園の外には置かないようにして、もはや自分自身が自己の系譜も家族や友人たちも檻の中でしか存在し得ないと認めるという形でなければ、その存在証明を共有できないのだ。
 自我を失わないように、自己を失わないように、アンジェラ・バルザックは行動した。無数の組紐の中の一本の糸、彼女が決して失わない一本の糸とは彼女が地上で得た自らの存在証明のことであり、それは鋭いエッジをかざしながら仮想の軛を振り切ってアンジェラ・バルザックという人格を大地に織り込んでいる。アンジェラ・バルザックという組曲は最後、地上において歌われている。彼女が歌っているのは身体に根ざした共鳴する知なのだ。身体においては唇を震わせることで言語を紡ぎ、意志を表す。物理的な接触こそが肝要となる。最後、彼女が選んだのは身体知であり、人類という種の原点であった。彼女は楽園を追放され、しかし原点に還った。この物語は回帰を謳った物語だったのである。

 

  『楽園残響』は、『追放』の続編スピンオフとして作られてコミケで売られていたものを、早川書房が文庫化したものです。ノベライズとしては手堅くまとまった佳作です。『追放』の主要人物であるフロンティア・セッターのバックアップとアンジェラ・バルザック同位体=肉体を与えられた2人目のアンジェラが登場します。ディーヴァの上層部はいまだフロンティア・セッターを警戒しており、地球から飛び立った宇宙船を破壊しようと画策します。そこにアンジェラ同位体が関わるのですが・・・という導入です。映画をご覧になった方なら安心して読める作品ですが、SF的な大仕掛けも用意されているので映画を未見のSFファンでも楽しめると思います。

 

 大樹さんの話で印象に残ったのが、小説における「乳と尻」の描写についてです。アンジェラ・バルザックは巨乳でスタイルのいいTバックのおねえちゃんです。

www.goodsmile.info

 ですから、彼女の戦闘シーンはシリアスな場面であっても乳や尻が揺れ、おおきなおともだちの欲望に訴えかける扇情的なものになります。映像では乳や尻がアップになるのでセクシーさがきちんと表現できますが、小説で戦闘の描写を行う際、セクシーさを表現するのがかなり難しいそうです。確かに、シリアスな戦闘シーンで「おっぱい」「Tバック」「おしり」などの単語が出てきたら興ざめになる気もします。

 

 映像と小説における描写の差異については、戦闘描写・アクションシーンにおいて活字は映像に及ばないという意見で、3氏とも一致していました。ただし、細かい筋肉の動きなど、映像化できない部分の描写を行うことができるという利点が、活字にはあるそうです。

 

 大樹さんは合宿にもいらっしゃったうえ、下倉バイオさんもいらっしゃっていたので、できればギャルゲーのことも含めていろいろお話をうかがいたかったですが、私は他の企画を観に行っておりました。

 

【吉上亮】

 

PSYCHO-PASS ASYLUM 1 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS ASYLUM 1 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS ASYLUM 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS ASYLUM 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

PSYCHO-PASS GENESIS 1 (ハヤカワ文庫 JA ヨ 4-6)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 2 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

PSYCHO-PASS GENESIS 3 (ハヤカワ文庫JA)

 

  吉上さんは3氏の中では最も若手の方です。文章同様、トークも知的で切れのある印象でした。『ASYLUM』『GENESIS』はノベライズとして原作の世界観をトレースしながらも、作家性を強く感じられる作品です。『PSYCHO-PASS』では、すでに世界設定が詳細に出来上がっているので、ノベライズで追加の設定や登場人物を出す際は、慎重にお伺いを立てるそうです。公式設定を管理している方が度量が広いらしく、よほどの齟齬がない限りはだいたい通るそうですが。

 

 吉上さんの作品では、都市が主要な舞台となります。吉上さんは小説を書く際に世界設定を密に作り込むそうです。その世界のエッセンスを最も凝縮したのが都市なので、必然的に都市を舞台とした物語になるそうです。アニメ『PSYCHO-PASS』では東京の具体的な地名がほとんど登場しませんが、『ASYLUM』『GENESIS』では具体的に地名を出しながら物語が展開されます。1回出した地名は次には使えないので、23区を移動しながら書いているそうです。23区の東部はあらかた使い切ってしまったので、次は練馬あたりでとおっしゃっていましたが、練馬は『PSYCHO-PASS』の世界観に合うのかなあ。 

 

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