otomeguの定点観測所(再開)

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中村稔『萩谷朔太郎論』短評

 米寿を越えていまだ法曹界で活動しながら、活発に詩作・評論活動を行っている中村稔。今年1月、その筆者が渾身の評論として上梓したのが『萩谷朔太郎論』です。

 

萩原朔太郎論

萩原朔太郎論

 

  萩原朔太郎といえば近現代の口語自由詩の端緒にして到達点である詩人であり、現代詩はいまだ朔太郎の掌の上で遊んでいるだけという表現もできるかもしれません。いうまでもなく、今まで多数の朔太郎論が書かれてきました。筆者はそれら他の著者の論を参照することなく、朔太郎の詩やエッセーなどに正面から向き合う正攻法で論を書きあげました。朔太郎のテキストに深く分け入り、豊富な引用と考察が散種された、傑作評論だと思います。

 筆者は偶像としての朔太郎を否定し、全体に批判的なスタンスで朔太郎の思索・詩作に臨んでいます。例えば「猫町」を駄作と切り捨て、朔太郎の幻覚詩の多くを否定し、社会性のなさを批判する一方で、「夢に見る空き家の庭の秘密」を日本の口語自由詩の頂点の一つと評価するなど、筆者独自の鑑識眼ヒューマニスト的観点から朔太郎の詩の再評価を行っています。そこにあるのは、筆者の愛憎入り混じった、朔太郎に対する違和感であり不快感であり共感覚なのでしょう。朔太郎を称揚するだけの似非評論ではなく、朔太郎の詩作とがっぷり四つに組んだ骨太な思索です。 

猫町

猫町

 

 

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 この本において朔太郎の詩に分け入るためのキーワードは、「自然嫌悪」と「性欲」の二つでしょう。

 地方都市・前橋に生まれた朔太郎は「自然」や「田園」を嫌悪し、それらを不気味なものとして作中に表現しました。初期の朔太郎は都市的な人工物を称揚していましたが、やがてそれにも失望して虚無感を抱き、晩年の漂白するような幻想詩・幻覚詩へと至ります。筆者は多くの幻想詩・幻覚詩を駄作と断じていますが、一連の夢想の中から傑作を抽出し、晩年の朔太郎が到達した虚無感の果てにある詩想の膾炙へと、筆者は解釈を巡らせています。

 性欲について、筆者は朔太郎を生涯苦しめたテーマだとみなしています。若いころ、朔太郎は自らの性欲を奔放に誇示しながらも苦悩し、激しく揺れ動いていました。さらに異性愛だけでなく自己愛、同性愛、近親相姦、獣姦、草木姦など朔太郎の様々な性的趣向が詩に付与され、詩作の性的な襞が深くなっていきます。朔太郎は内面の衝動や不安を綯交ぜにして噴出し、詩作の駆動因としていたようです。

 また、筆者は朔太郎の音律・音韻について、筆者自身の音律・音韻と比較しながら、両者を止揚しつつ理論化を試みて、朔太郎の詩想から思想へと分け入る手がかりを得ようとしています。しかし、実際のところ、朔太郎の詩想⇒思想の核心は観念と現実/イデアとロゴス/精神と物体などの二元論的な軛を超出しえない線の細いものであり、朔太郎は自らの思想を詩想に還元することができていません。そして、筆者自身の朔太郎の詩想⇒思想に対する批判も、表面的な音律・音韻論にとどまっている印象があります。できれば朔太郎の思想解釈については、何か他の理論文献を活用するなどして、もっと思索を深めてほしかったと思います。まあ所詮、これは詩を専門としていない似非思想愛好者の戯言に過ぎませんが。