otomeguの定点観測所(再開)

文芸評論・表象文化論・現代思想・クィア文化・社会科・国語表現・科学コミュニケーション・初等数理・スポーツ観戦・お酒・料理【性的に過激な記事あり】

エンゲルスは社会主義者ではない

 こんなことを書くと各所からお叱りを受けそうですが、この本を読了して、最初に感じた率直な感想が表題でした。今年刊行された思想史関連の著作の中では屈指の面白さで、エンゲルスの偶像を破壊し、彼の人間的側面に深く切り込んだ好著です。

  

エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 (単行本)

エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 (単行本)

 

  エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』を発表したのは24歳の時でした。そして、彼は盟友・マルクスとともに科学的社会主義の基盤を作り上げ、後世にその名を残しました。

イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター (上) (岩波文庫)

イギリスにおける労働者階級の状態―19世紀のロンドンとマンチェスター (上) (岩波文庫)

 

  

  しかし、エンゲルスは時に偶像化され、時に貶められ、実際の人物像からはかけ離れた姿が勝流布されてきたのではないでしょうか。曰く、マルクスの忠実な同盟者。曰く、マルクスよりも思想・理論において劣っていたので下がった位置から金銭援助をした。曰く、マルクス主義を歪曲して後のレーニンやスターリンにつながる基盤を作ってしまった。曰く、マルクス著作を改竄した。これまで様々な風説を目にしてきました。

 しかし、『エンゲルス』で若き歴史家であるトリストラム・ハントが膨大な資料から紐解いていく人間・エンゲルスの姿は、様々な矛盾と苦悩を抱え、うまい酒と料理と女をこよなく愛し、洒脱なユーモアを解する、実に人間味あふれる人物です。恐らく、人間・エンゲルスの実像にここまで鋭く迫った著作は、今までなかったと思います。

 エンゲルスは資本家でした。著作プロレタリアートの団結を叫びながら、現実では資本家としてプロレタリアートから搾取を行っていました。経営者としてのエンゲルスは資本家と労働者の線引きを厳格に行う、あくまでプラグマティックで実利的な人物だったようです。エンゲルスは友情に篤い人物として、盟友・マルクスを経済的に援助し続けました。しかし、その資金はプロレタリアートを搾取して得たものでした。これはよく知られたことですが、社会主義にとっての不都合な真実です。 

 また、『エンゲルス』で描かれたマルクスの姿は、科学的社会主義の偶像とはかけ離れた、これまた社会主義にとっての不都合な真実といえるものです。マルクスは自力では家族を養うだけのお金を稼げず、経済的にエンゲルスに多くを頼っていました。『資本論』執筆があったとはいえ、それくらいは自分で何とかしろと思ってしまいました。マルクスはさらに、ブルジョワ的な贅沢を愉しみ、浮気でできた子供をエンゲルスに押しつけ、娘を名家に嫁がせようと画策したそうです。『資本論』の著者の行動とは思えません。『エンゲルス』を読んでいるうちに、だんだんマルクスがダメな人間に思えてきました。

 エンゲルスは49歳で職を辞すと、投資家として半ば悠々自適の生活を送りました。帝国主義資本家や投資家たちとの交流も多彩で、自由人としての生活を楽しんでいたようです。理想を掲げて友情を貫く一方で、自分の欲望に素直な面や、金儲けのために冷徹に考える面も持っていました。人間・エンゲルスの本質は、社会主義者という面だけではなく、多様な側面の組み合わせだったことが分かります。

 思想的にも、エンゲルス社会主義一辺倒ではなかったようです。科学的社会主義はもちろんベースにありますが、武力革命を否定し、アナーキストを否定し、前衛の活動家をこき下ろし、社会主義者の先達を批判しました。古典的な軍事理論を好み、帝国主義政府の側に立つこともありました。当時の新しい潮流だったフェミニズムやダーウィニズムにも精通していました。帝国主義的な経営者・資本家として平等主義を否定し、階級を利用して労働者を搾取することにためらいがありませんでした・・・などなど。一見するとエンゲルスの思想は矛盾に満ちています。恐らく、社会主義的な理想を軸に持ちながらも、柔軟に新しい思想を取り入れつつ、資本家として冷静な側面も持っていた、多彩で深い襞こそが、エンゲルスの思想の姿なのではないでしょうか。

 『エンゲルス』は、社会主義の中で偶像化され、批判され、歪曲されてきた人間・エンゲルスの姿を、膨大な一次資料に立ち戻りながら修正し、エンゲルスの人間的魅力を明らかにしています。また、エンゲルスの思想の多彩さと柔軟さを示すことで、レーニン以降の硬直化した社会主義を批判し、エンゲルスの思想の再評価を行っています。歪んだ言説にとらわれることなく、丹念に資料を積み上げてエンゲルスの内奥に切り込んだ、思想史・人物史の力作であり傑作です。まずはエンゲルスに対する偏見を捨てなければなりません。余計なバイアスにとらわれることなくエンゲルス著作を改めて読み直す必要がある、と強く感じました。