otomeguの定点観測所(再開)

文芸評論・表象文化論・現代思想・クィア文化・社会科・国語表現・科学コミュニケーション・初等数理・スポーツ観戦・お酒・料理【性的に過激な記事あり】

2018極私的回顧その10 国内文藝

 極私的回顧第10弾は国内の文藝です。いつものお断りですが、テキスト作成の際にamazonほか各種レビューを参照しています。

 

otomegu06.hateblo.jp

otomegu06.hateblo.jp

 

【マイベスト5】

1、ファーストラヴ 

ファーストラヴ

ファーストラヴ

 

  島本理生の第159回直木賞受賞作です。エンタテイメント小説の賞を受賞しましたが、ミステリとしての出来は平凡です。《別冊文藝春秋》連載だったからエンタテイメントの直木賞を受賞したに過ぎません。作品に着目せず掲載誌で小説のジャンル分けを行う日本の文藝=文学界の戯けた行為をあざ笑ってやりましょう。 この作品は『ナラタージュ』から連なる彼女の主題が一つの到達点に達して島本理生が作家として成熟したことの証左であり、ミステリや恋愛小説ではなくあくまで文藝=文学として評価するべき小説です。そもそも本来、島本はもっと前に芥川賞を獲得すべき作家だったはずであり、遅きに失した顕彰なのですが。

ナラタージュ

ナラタージュ

 

 

2、ミライミライ 

ミライミライ

ミライミライ

 

  極私的には古川日出男久々のヒット作でした。北海道がソ連の統治下に入り、本州がインドと連邦を形成しているという架空の東アジア史がまず秀逸です。しかし、この作品は歴史小説であり音楽小説であり両者の変奏です。もう一つの主題がヒップホップであり、ラップのごとく畳みかけてくる音楽的文体と、そこから沸き立つ幻視を味わうことも重要です。

 

3、地球にちりばめられて 

地球にちりばめられて

地球にちりばめられて

 

  言語への関心および国家や国民性の越境という、多和田葉子のいつものテーマが色濃く現出した作品です。日本と思しき故国が消滅し、国を失った同朋たちが世界を渡り歩く物語です。国家や言語などの個有性が希薄になった世界で、登場人物たちは多彩なアイデンティティをたくましく構築していきます。ちんけなナショナリズムローカリズムなどに依拠せずとも、自我の拠り所など何とでもなるのです。世界から寛容さが失われている現実の状況を鋭く批評した作品だともいえるでしょう。

 

4、スタア誕生

5、早稲田文学 2018年春号 

『スタア誕生』

『スタア誕生』

 

  

早稲田文学 2018年春号 (単行本)

早稲田文学 2018年春号 (単行本)

 

  2018年もババアは健在でした。当ブログでレビュー済みなので、手抜きで申し訳ありませんが再掲します。

otomegu06.hateblo.jp

 『噂の娘』では映画スターたちにあこがれるだけの存在だった少女が、実際にニューフェースに応募して、女優となっていく物語が『スタア誕生』です。日経の書評にもありましたが、いわば『噂の娘』スピンオフです。でも、極私的には本家よりスピンオフのほうが面白かったように思います。
 月並みな表現ですが、金井美恵子の小説は映画的だといわれます。正確には、映画的に見えるが実際には映像にしづらいあわいの部分こそ金井作品の肝なのでしょう。この本の見どころは序盤です。モノクロ映画のような描写・情景の中に子供時代の夢が濃密に詰め込まれ、時間がゆるやかにゆるやかに流れていきます。読者もろとも物語世界を映画の夢に包み込む至福の紙幅ですが、点景が夢想的な時間感覚の中にぼやけていき、視覚化しづらいというか視覚化するのがもったいないほどの甘美さです。
 物語後半、主人公は夢をかなえて映画界に飛び込み、実在した映画にも何本も出演します。しかし、そこで待っていたのは子供らしい夢想=夢見の終わりであり、地に足をつけて生きなければならない現実の過酷さでした。日本映画が娯楽の王様から滑り落ちていく歴史の有様が、夢から醒めていく主人公の生き様を通じて照射されています。後半でこのように夢想から頽落するからこそ、物語前半の夢が古き良き映画のように光輝いて見えるのでしょう。
 結局、夢を何度でも見返すことができるのは記憶の中だけです。その貴さと虚しさとが呼応しているこの作品は、まさに映画的ですが映画的でなく文学的ですが文学的でない金井作品の点景=典型の一つと称されるべきものなのでしょう。

 

【2018年とりあえず総括】

 島本理生古川日出男など、極私的に好きな作家の良作が久しぶりに出たこともあって、久々に作柄が良かったように思います。また、昭和を含めた20世紀を回顧し、歴史の解釈や総括を通じて現在の政治や情況を批評する作品が多かったという印象です。反権力は文藝=文学の駆動因の一つであり、反知性主義への対抗文化として作品が尖鋭化することが、文藝=文学全体の活性化につながっているという印象です。

草薙の剣

草薙の剣

 

 

流砂

流砂

 

 

ある男

ある男

 

 一方、小説言語を取り巻く環境が変化⇒劣化していく中、散文で何をどう表現するのかという根本問題的な問いかけが(詩においては常に進行しているのに)文藝=文学において希薄であるのはなぜでしょうか。言葉について突きつめることなく歴史や現実を批評しても、矮小なノスタルジーが発生するに過ぎません。言葉を巡る様々な実験が行われ、受け止められるのが詩であり文藝=文学という場であるはずです。人間を根源的にとらえ直し見据え直そうとする(私小説的)作品こそ、文藝=文学の軸です。毎年同じことを書いているような気がしますが、2019年には鋭利な作品が多く出てきて文藝=文学がさらに活性化されることを願います。