otomeguの定点観測所(再開)

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思弁的実在論関連サルベージ~ハーマン批判テキスト~

 この後書く記事への準備段階ということもあるんですが、4月に吹き飛ばした前ブログのテキストのうち、思弁的実在論関連のものをサルベージして再掲します。以前、今年のSFセミナーのレポートにも引用しているものですが、項目として独立させます。繰り返しの掲載で恐縮ですが、ご了承ください。なお、以下のテキストは私の誤読に基づく誤った内容になっております。

 思弁的実在論をはじめとする21世紀の唯物論・存在論においては、これまでSF・ファンタジー・ホラーなどにおいて展開されてきた感覚やイマージュの世界が現実世界における理論として現出してきたということ。すなわち、虚構と現実の境界が融解した現代世界において共感覚的な沃野を揺蕩うという知的快感が魅力です。そして、思弁的実在論ほかこれら新しい存在論は新たな文芸批評・文化批評の言語を創造する可能性を有していると思います。

 SFにおいてはサイバーパンク以降の意識とは何か・神とは何か・人間とは何かという形而上的な問いかけ、およびレムがソラリスにおいて展開したような存在論的思弁にシンクロします。

 ファンタジーや幻想文学においては、超自然的・霊的・魔術的・神的存在などについて、物語内の登場人物たちがいかにこれら超越的存在を知覚・認識しているについて論じる、認識論的展開が考えられます。幻想の世界に生きる対自にとっては、神や霊や魔術はまぎれもなく実在であり、しかも超越性を有する実在です。人ではないものが人の圏域を超えて存在するという、現実世界の我々以上に過酷な認識世界を生きている登場人物たちが、超越的存在や世界をいかに認識しているか、について存在論的な思弁で切開することができれば、ファンタジーや幻想文学の解釈の可能性が大いに広がると思います。

 ホラー・怪奇については、すでに思弁的実在論の議論の中で幾重にも展開されていますが、これまで我々怪奇・幻想の徒が感覚的に摂取してきた霊的・魔術的・神的な存在に対する恐怖や畏怖の念を批評言語に置き換えていくという知的快感が魅力です。

 文芸批評という点については、まだSFなどジャンル小説の側からの反応がほとんど出ていないような気がするので、これから議論が深まるのを期待したいところです。

 しかし、一方で、SF・ファンタジー・ホラーの愛好者という側から見ると、思弁的実在論者たちによる誤読や、ジャンル用語の安易な使用が目につきます。「哲学のホラー」「ホラーの哲学」と名乗り、ラヴクラフト御大に突っ込んでいくからには、怪奇・ホラーにおいて重ねられてきた様式美をきちんと踏襲してほしいところですが、どうも迂闊な真似をしている輩がいる気がします。こういう書き方をすると、ひねた読者が狭量な議論をしているととられそうですね。でも、その通りです。狭量でいいんです。敷居が高くていいんです。長年にわたって形成されたジャンルの様式美をきちんと理解せず土足で踏み込む闖入者に対して相応の対応をするのも、ジャンル愛好者の楽しみの一つですから。

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 グレアム・ハーマンをぶったたくとオブジェクト指向存在論の根幹が揺らぎかねませんが、怪奇・幻想の徒としてはハーマンの読解には違和感を覚えます。ホワイトヘッドからハイデガーを介した流れにおいて、個体的存在者が退隠(wuthdrawal)し、認識において個体間の関係性の把握が先行してしまうため対自間では表面的で間接的な関係性しか結べない、というハーマンの論は、先行する現象学や存在論の流れを受け継いだあくまでオーソドックスな議論です。
 ただし、ハーマンのこの論はあくまで、お互いが人間であるという存在了解がアプリオリに存在するから成り立つ論です。認識しようとする相手が人ではないもの、例えばラヴクラフトの小説における邪神が相手となると、話が大きく変わります。邪神は異世界の存在であるため遭遇者に対して直接的に現前せず暗示的に語られる、とハーマンは論じます。邪神の存在が背景に後退して風味と化して怪奇的なオブジェクトとなったところに、ハーマンはラヴクラフトの作品における恐怖の源泉を見出しています。しかし、これが誤読だと思います。

https://www2.chuo-u.ac.jp/philosophy/image/iimori2015.pdf
 異世界の存在であろうとあるまいと、邪神たちは人間に対してあまりにも直接的に現前します。そして、邪神の存在が人間にとって認識や知覚の閾を超えた強烈なものであるがゆえに、人間は邪神や魔物を暗示的に認識せざるを得ません。邪神を真正面から見たら人間は発狂しますから、理性を保つために意識的にせよ無意識的にせよ邪神の現前から目をそらさざるを得ません。だからSAN値があるんです。

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 邪神の極めて圧倒的な実在にこそ、ラヴクラフト作品の恐怖の源泉があります。ハーマンの解釈のように人間と邪神の関係が間接的で表面的な関係性にとどまるのであれば、あるいは邪神が暗示的に知覚されるぼやけた存在であるならば、邪神と接した人間が根源的な恐怖に至ることはないでしょう。

 ハーマンは、ホワイトヘッド解釈において存在者としての人間に強い個体性を見出しています。しかし、ラヴクラフトの邪神からは個体性を除去し、存在者としての邪神を意図的にぼやかす読解を行います。これは邪神に対する冒瀆に他なりません。

 また、ハーマンはラヴクラフトの作品に科学性やリアリズムの影響を見出し、幻想文学やファンタジーとは異質の作家だという論を展開します。しかし、ラヴクラフトはあくまで怪奇・幻想の作家であり、科学的なリアリズムを追求するSF者でも文学的なリアリズムを追求する文学者でもありません。たとえ科学的知見をエッセンスとして取り入れた作品であっても、ラヴクラフトの作品は散文詩的に解釈して豊饒な怪奇・幻想小説として味わうべきものであり、ハーマンの読解は哲学的な観察に偏りすぎています。

 なんだか狭い了見からの批判になってしまいましたが、それでもなお、ハーマンやメイヤスーの論がSF・ファンタジー・幻想・怪奇などジャンル小説や文化批評の枠組みにおいて有用であることは間違いありません。まあ、いろいろ遊びながら徐々に消化し、活用していけばいいかなと思っています。