2016極私的回顧その17 アート
極私的回顧第17弾はアートです。思想・評論同様、ベスト5ではなく、私が個人的に関心のあった話題について雑駁にまとめております。
【地域アート⇒さいたまトリエンナーレの失敗】
2016年もビエンナーレやらトリエンナーレやらがあちこちで開催され、日本中で地域アートを見ることができました。瀬戸内には残念ながら行くことができなかったのですが、茨城北、さいたま、岡山など、出張ついでにいくつかの芸術祭を回りました。地域芸術祭が華やかになるのは悪いことではありません。しかし、一方で、2016年は地域アートのあり方についていくつも石が投じられた年でもありました。
美術は地域をひらく: 大地の芸術祭10の思想 Echigo-Tsumari Art Triennale Concept Book
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アートの力と地域イノベーション 芸術系大学と市民の創造的協働 (文化とまちづくり叢書)
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アートは地域を変えたか:越後妻有大地の芸術祭の13年:2000-2012
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2016年刊行でないものも混じっていますし、もっといろいろ貼れますが、とりあえず参考文献としてはこれくらいで。
地域アート・地域芸術祭の魅力の一つは地域との一体感です。しかし、地元に深入りし、地元に配慮するあまり、アートではなくただのヨイショにすぎない作品が散見されるのは何とかならんのでしょうか。本来、社会や政治などと一定の距離を置いて、批評・風刺などを行うのも、アートの一つの機能のはずです。地域べったりになってしまっては、アート本来の価値が損われます。そして、アートとしての魅力のない作品が並んでしまえば、芸術祭のテーマ性が薄れ、イベントとしての価値も落ちます。
それに、芸術祭について地元の政治家や経済界などが地域活性化だの経済性だのと期待しているようですが、本末転倒です。アートの文化的な意義や価値は、そもそも経済とは一線を画したところにあるものです。しかし、文化についての理解がない無教養な輩が利益優先で芸術祭について短絡的な議論を行い、イベントに介入してくるからダメになるんです。典型的な失敗例がさいたまトリエンナーレでした。
さいたまトリエンナーレは地元との一体感がなく、アートとしての価値もテーマ性もあいまいで、見事に沈没に終わりました。私も地元なのでとりあえず観に行きましたが、会場の人はまばらで、会場周辺の地元の関心は薄く、展示作品はいまいちで、芸術祭のテーマ性はよく分からず、はっきりいって何の魅力も感じませんでした。地域への浸透も目玉になるものもないままにずるずると開催期間だけが過ぎていき、全く盛り上がらないまま終わってしまったという印象でした。
迷走する"さいたまトリエンナーレ" 文化事業と都市間対立 : 終わらぬ二重都市「さいたま」
「さいたまトリエンナーレ」まで1カ月 知名度低迷、PR躍起 :日本経済新聞
さいたま芸術祭(トリエンナーレ) 、1億2千万円かけて参加者一人の日も|川村準(無所属)のブログ
東京新聞:さいたま市議会紛糾 トリエンナーレ担当職員の残業月平均120時間超:埼玉(TOKYO Web)
五代目 - さいたま市はブラック企業!? トリエンナーレ担当職員の残業時間は月平均126時間!!
異常な時間外労働・残業が改善できないならトリエンナーレなんてやめればいい|帆足和之(ほあしかずゆき)のBlog「カズログ」
失敗の原因はいろいろあるようです。本来の芸術祭の理念が骨抜きにされた上、見切り発車でイベントが行われたためPRがままならずに事前の周知が不十分で、行政と市議会の間で政争の具にされて迷走に迷走を重ねたという印象です。開催に関わった市職員の残業が月120時間を超えるというブラックぶりも問題になりましたが、2017年にさいたま市長選が行われることもあって、閉幕後もさや当てが続きました。次の開催については一旦白紙になったようですが、もう二度と開かなくていいです。
【ダダ100年】
https://www.eda.admin.ch/countries/japan/ja/home/switzerland-and/culture/dada.html
https://ja-jp.facebook.com/dada100tokyo/
http://www.art-annual.jp/news-exhibition/news/59289/
ダダ100周年 グランドオープン - SuperDeluxe
https://www.waseda.jp/culture/aizu-museum/news/2016/06/10/1213/
ダダイズム誕生100周年 Dada 100 Anniversary - スイス政府観光局
まだまだいろいろ貼れますが、とりあえずこれくらいで。
2016年はスイスでのダダ誕生100年だったため、いろいろなイベントを楽しむことができ、改めてダダ宣言の意味について考える機会がありました。ダダとは第一次世界大戦という残酷な現実に向き合って、既存の思想や芸術を否定し、虚無のうちに新しい世界のあり方を模索した運動であり、第一次世界大戦という人類史上最大のカタストロフが産んだ忌み子のようなものでした。彼らは様式化を拒み、オートマティックかつ無機質に突き進みました。
ムッシュー・アンチピリンの宣言―ダダ宣言集 (光文社古典新訳文庫)
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『宣言』におけるツァラはあえて客観的に大戦を俯瞰し、オートマティズムによってダダとしてのジュマンフティスムを貫いています。大いなる破壊というイコンである大戦を破壊し否定するには、世界と距離をとって、自ら狂気となる必要があったのでしょう。ユーモアとペーソスは正気でもあり狂気でもありますが、所詮その差は紙一重です。ユーモアは過酷な現実をすり抜けるための隘路であり、矛盾や支離滅裂はダダイストたちを駆り立てるための熱狂だったのです。『宣言』は人間の生を宙づりにし、やがてシュルレアリスムへと通じる幻視を用意しました。
ツァラにおいては言語とは物自体であり、大文字のオブジェです。言語から意味を抹消してしまうと、つまりシニフィエもシニフィアンも捨象してしまうと、フォルムのみが残ります。それが美しいわけです。浮遊するシニフィアンとはつまりオブジェの断片であり、言語が全く別の位相へと昇華されたことということです。そこにあるのは有無を言わせないただの音と文字の列です。ツァラの言語破壊行為はフーゴ・バルなどにつながっていきます。でも、ツァラの言語遊戯や音響指摘はただのおちょくりにしか思えません。ツァラがどこまで真面目にやっていたかどうかは非常に怪しいものです。所詮、テーマ性やメッセージ性など、鑑賞者・批評者による後付けです。重要なのは言語を介した阿片的なトリップです。ダダの遊戯を怜悧に見つめる距離感。それもまたダダなのです。
オートマティスムは狂気への隘路です。言葉や行動が自動人形のようになるということは病気の兆候です。自動筆記は日常的な発話と断絶があります/ありません。大文字の現実を飛躍してリリカルなメタ現実/超現実へと至りましょう。ダダからシュルレアリスムへ跳躍? 否、無理くりダダで通しましょう。自動化の果てにあるのは歪んだジャンクとしてのオブジェ/物自体/ただの音と文字の列。過程に主観が入らない/対象を主観として見ない美しさ。写真は製造過程に客観性があるから美しいのです。マン・レイの写真は宙づりにされたオブジェを見せつけたものです(マン・レイはダダではありませんが・・・)。ダダが非人間的なメカニズムをそれ自体として扱い、有機的なるものを無機的な存在に近づけます。人称が無となり、人間が瓦礫となり死に敷衍されます。ダダは断片が浮遊する象徴界と現実を媒介するル・セミオティックであり、生命と物との境界を浮遊するアイコンです。テキストが『宣言』を離れ、美学的な思弁的実在論(??)へと近づいてきました。これ以上の論はこのテキストの幅に余るので、ここで撤退させていただきます。