稲作の広がり
縄文時代の稲作の広がりについて、雑駁ですがまとめてみます。伝聞のつぎはぎのようなものですが、何卒ご容赦ください。
【稲作の日本伝来】
- 作者: 中沢新一,山極寿一,Ph・デスコラ,T・インゴルド,A・ツィン,出口顯,箭内匡,大村敬一,石倉敏明,近藤宏,清水高志,柳澤田実,岡本源太
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2017/02/03
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日本文化の形成(宮本常一著)(2)-蝦夷をつくった国家について | 秋田で幸せな暮らしを考える
宮本常一によると、縄文時代、日本列島に稲作をもたらしたのは倭人と呼ばれる人々でした。後に、倭といえば古代日本のことを指す言葉になりましたが、当時の倭人と呼ばれる人々は夏の末裔で、揚子江の河口あたりで半農半漁の暮らしをしながら稲作もしていました。彼らが九州北部に稲作をもたらした、というのが宮本の主張です。
日本古代史つれづれブログ 中国最古級資料からみた倭人の源流 ~ やっぱり倭人は揚子江下流域からやってきた!
縄文人の全てが稲作の伝来を歓迎したわけではありませんでした。縄文時代、既に栗やイモ類などの栽培は行われていました。また、水田耕作は手間がかかるうえ、水を張るので不衛生で伝染病などのリスクもありました。そのため、頑なに稲作の伝播を拒んだ地域もあったようです。
稲作は朝鮮から伝わった、というのが教科書的な知識です。しかし、実際には、朝鮮半島や南方など複数ルートで入ってきて、日本に定着したというのが自然な流れでしょう。また、水稲栽培については、日本から朝鮮に伝わって技術もあるようなので、東アジア全体で稲作の技術のやり取りが行われていた、と考えるべきでしょう。
稲作が朝鮮半島から日本に伝わったという教師は中学地理を知らない 会員番号4153番
稲作が始まったのは九州の博多湾周辺である、というのが現在最も確かな説のようです。もちろん異説はありますが、とにかく縄文中期から後期にかけて九州で稲作が行われていたのは間違いなさそうです。稲作を拒否する縄文人もいる一方で、稲作の情報は全国に広がっていきました。わざわざ東北・青森から九州に視察に来た縄文人がいたそうです。えらい大移動をしていたものです。東北ではコメ作りはかなり早くから行われていましたが、寒冷地のためうまく育たなかったらしく、稲作が早々に放棄されてしまったようです。当時は現在よりも暖かったはずですが、それでも稲作に向いた気候ではなかったのでしょう。やはり栗やイモなどを育てる方が適切だったのでしょう。
『板付遺跡』 (日本の稲作のルーツは博多区板付であった) | 博多の魅力
http://nature.cc.hirosaki-u.ac.jp/lab/1/plantbrd/rice/file2.htm
稲作は太平洋側と日本海側の2つのルートで九州から北上していったようです。太平洋側も日本海側も、海岸線の人々は割合スムーズに稲作を受け入れたようですが、内陸の人々は伝統的な縄文の生活・農耕の様式にこだわり、稲作を拒んだようです。太平洋側では愛知県あたりの中部地方の内陸で稲作の伝播がストップし、日本海側では能登半島のあたりで伝播がストップしたようです。結局、太平洋側では稲作は内陸ではなく海岸線を伝って静岡、関東と伝播したようです。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/33/5/33_5_317/_pdf
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo07/0703ishi.pdf
http://hazu.org/syokai-rekisi.html
http://r-dmuch.jp/jp/results/heritagereports/dl_files/fy2012/03.pdf
弥生時代、稲作は東北や北陸を含む全国に展開されました。縄文時代から弥生時代にかけての気候の変化も影響したかもしれません。ですが、やはり稲作側が強力な国家を作って縄文人たちに圧をかけ、だんだん稲作を北に広めていったと考えるのが妥当でしょう。つまり、稲作とは、縄文人が侵略された歴史でもあったということです。