2017年極私的回顧その11 詩
極私的回顧11弾は詩です。去年よりはかなり進行が早くなっていますが、このペースを維持できるでしょうか。いつものお断りですが、テキスト作成のためにamazon、《現代詩手帖》ほか各種レビューを参照しております。また、これも毎年のお断りですが、詩誌や同人をきちんと追っていないので、不完全な総括であることをご容赦ください。
【マイベスト5】
1、白夜
2017年に読んだ中では最も壮絶な詩集でした。人間だけではなく人ではない生き物や土地や社会や制度までをも他者としてくくり、《現代詩手帖》によれば世界と自分すなわち他者と自分との間に切断線を引くことで、対他を見つめるまなざしに深みと強みが与えられています。生と死に対して真摯に向き合い、壮絶で率直な言葉を紡ぎながら詩人の観念を析出させた、緊張感に満ちた内省と外省の詩集です。
2、デジャヴュ街道
フランス現代詩やポストモダン以降の現代思想を照応しながら間投詞の多用されたアナーキーな世界を構築した、実験的詩集です。《現代詩手帖》でも触れられていましたが、詩が技巧的に精緻に構築される一方で、意味の破砕された吃音的な表現が詩人のイノセンスを顕わして、詩の解体が試みられています。破砕された音に触れると言語以前の言霊が湧き立ち、詩想が心地よく読み手に入ってくるのが不思議です。
3、失せる故郷
現代に対する肯定と否定が交錯したソネットです。権力によって揚棄された死体やテロリストや罪悪が詩集に散種され、人間誰もが有する暗黒面が沸々と引き出されます。その一方で人間賛歌を謳う箇所もあり、両者の交錯が印象に残ります。読者が詩全体を俯瞰できるソネットだからこそ世界の両面が現前しうる、形式と様式美が見事にはまった詩集だといえるでしょう。
4、現象学的詩論3冊
詩論としてはいずれも優れているのでしょうが、現象学の徒から見ると、サルトルについてもハイデガーについてもフッサールについても読み込みの甘さが目につきます。サルトルのシュルレアリスム批判は「主観性の廃墟」を露出させて客観世界を問題にすることで逆説的・逆照射的に主観性の世界へ立ち戻ろうとしていたはずですし、フッサールの間主観性を留保してしまうとテーゼにせよアンチテーゼにせよ社会や公共を巡る議論の基盤がそもそも崩れてしまいますし、ハイデガー自身は民族の共同意識に取り込まれてしまいましたがハイデガーの存在論および存在論の追究する根源は特に戦後の詩論においては人間も自然も含むすべての存在者の融合ですから結局は世界を開けひらくことになるはずですし。思想と詩だと依拠するテキスト読解の圏域が異なるということを改めて認識しました。結局、本源的に私は文学・文藝ではなく哲学・思想の徒なんでしょうね。
5、魔法の丘
先ほど『白夜』の評で切断線という表現を用いましたが、暁方ミセイがごくあっさりと世界や風景と有機体的に一体化し、切断線なるものを乗り超えてしまうのは新鮮であり衝撃です。実存について内省するのではなく、人間を機能的にとらえることで人間と自然を一体化してしまう軽やかさ。その一方で、人間についての強い自意識も忘れていません。透明さと強さと清々しさの中にどこか危うさも漂う詩集です。
【2017年とりあえず総括】
時代の空気や生と死について深く苦悩する詩集が多く見られた一方で、2017年の後半に若い世代の詩集がいくつか刊行され、自己や世界について伸びやかに表現していたのが印象的でした。現実をリアルとして肯定するところに依って立つ新しい感受性。最果タヒや暁方ミセイを筆頭とした軽やかな言説は古い世代に対するアンチテーゼのようで痛快です。でも、せめてもうちょっともがいてくれてもと思って、最果タヒはベスト5から外しました。
私は詩の熱心で良心的な読者ではありませんが、外から眺めていると詩壇を巡る状況は悪いものではないように思われます。文藝もこれくらい軽やかに言葉の実験や冒険をやってほしいものです。表現についての敷居や垣根が低く、ジャンルの紐帯が強いことがやはり詩の強みですね。WEB上の躁状態が維持されつつ、刺激的な詩集が刊行され続けている状況は、読者としては嬉しい限りです。引き続き旧来の文学言語の深化と解体のせめぎ合いが行われながら、2018年も面白い詩集に出会えることを願います。