otomeguの定点観測所(再開)

文芸評論・表象文化論・現代思想・クィア文化・社会科・国語表現・科学コミュニケーション・初等数理・スポーツ観戦・お酒・料理【性的に過激な記事あり】

2019極私的回顧その24 思想・評論

 それでは極私的回顧24弾は思想・評論です。本当は現代思想系のテキストももっと書かなきゃいけないんですが、すっかり内的なエネルギーが枯渇しており、1年くらい間が空いてしまいました。相変らず愚にもつかない記事を書き飛ばしている場末ブログですが、飽かずお付き合いいただければ幸いです。毎度のお断りですが、なお、リンクを張ったテキストを中心に複数のテキストや文献を参照しながらテキストを作成しております。

 

2018極私的回顧その16の3 思想・評論(思弁的実在論SR・オブジェクト指向存在論OOO・新しい実在論NM関連) - otomeguの定点観測所(再開)

2017年極私的回顧その16の3 思想・評論(思弁的実在論SR・オブジェクト指向存在論OOO・新しい唯物論NM・新しい実在論NR・プロメテウス主義/加速主義・ゼノフェミニズム) - otomeguの定点観測所(再開)

2016極私的回顧その16 思想・評論 - otomeguの定点観測所(再開)

 

  

美術手帖 2020年2月号

美術手帖 2020年2月号

  • 発売日: 2020/01/07
  • メディア: 雑誌
 
これからの美術がわかるキーワード100 (BT BOOKS)

これからの美術がわかるキーワード100 (BT BOOKS)

  • 発売日: 2019/04/08
  • メディア: 単行本
 

 

【人新世に対する私見

 以前、人新世に対する判断をいったん保留にするということを書いた気がしますが、その意見は今でも変わっていません。現状、人新世については国際地質学連合において正式に認定された地質年代ではなく、提案はされているもののまだ作業中の段階です。極私的には、人文科学の側からの過剰反応が気にかかります。思弁的実在論、ポストヒューマン、自然の終焉、人間の終焉などといった概念に絡めて独り歩きしている印象が強く、感情的反応や性急なイデオロギー構築に陥っている感が強いです。また、ホモ・サピエンスという一生物種に過度に焦点を当てた、自作自演・自画自賛の地質区分にも映り、その点も不快ですね。人間はあくまでこの地球上で活動している一生物種に過ぎず、登場時点から地球環境や他種の生物に対して様々な影響を与えていますが、それは他の生物種も多かれ少なかれ同じことを行っています。それに、ホモ・サピエンスの歴史において現在の文明は温暖な気候によってたまたま育まれたものであり、ごく短期間の諸相に過ぎません。地質学的には人間の文明など短期間で崩壊するわけですから、そんなものを地質年代として確定する意味があるのかどうかは疑問です。未来においてホモ・サピエンス同様に文明や知性を発達させた生物種が現れたとしても、ホモ・サピエンスという化石種の存在には気が付いても、文明の存在には気づかない可能性が髙いでしょう。また、これはペシミズムではなく、形而上学存在論・認識論的な議論はさておいて、人間が存続しようが絶滅しようが地球は存在し続けるし、地球が滅亡しても宇宙は存続し続けます。単にそれだけのことです。

 地球環境を人類にとってサステナブルにする・ハビタブルにするという安直な議論には違和感があります。人類が介入した自然に対して人類ができる範囲で人類存続のために一定の管理を行う、ということは必要でしょうが、それが過度な妄信を生んで、ホモ・サピエンスにジオ・エンジニアリングが可能であり、エコ・システムやアース・システムに対する人為的介入を肯定する、むしろ自然を管理すると称して積極的な介入を行う、一見モダニズムや加速主義を装いながら近代初期の旧態依然とした自然観につながっていく、退歩(??)を犯してしまう危険があります。人類が生み出したテクノロジーは放棄不可能であり、また人類がアース・システムやエコ・システムに対して与えた影響も消去不可能です。諸々の点において臨界を越えているのですから、ホモ・サピエンスの存続のため、我々は自然に介入し、管理し続けなければなりません。しかし、その際、人間と自然を二元的に考えるのか、人間と自然を接続されたハイブリッド、一体のものとして考えるのか。私は後者をとりたいと思いますが、その際に実際の行動として表すべきことは、人間も自然もその本質をしっかり存続させ共存させ続けるという、あくまで現実的な対応に立脚すべきですし、倫理的責任を常に問い続けるべきです。人類生存のための倫理として、マルクス・ガブリエルが唱えるような観念論的な人倫の復興、人間が人間であることの肯定、および自然が自然であることの肯定、は哲学的な基盤として欠かせないということでしょう。 

 

 とはいえ、自然と人間が人間論的なものなのか、一体のものなのか、という議論は恐らく本質ではないでしょう。マルクス史的唯物論を現代のエコ・システムおよびアース・システムに適用する議論もありますが、例えば一方で、自然と人間を二元のものと考えたとしても、自然も人間も人間や動物や植物などとの連続の間に否応なく埋め込まれていて、人間が生存するためには人間も自然の一部として自然と循環を形成しなければなりません。他方、人間が生存のために必要や欲求に応じて自然を加工し、人間世界を作ってきた、この生成変化の歴史も否応なくあり、特に近代資本主義以降で人間と自然の循環のあり方が根本的に変容し、一元とも二元ともとれるありようになった。これもまた事実であり、マルクス史的唯物論で唱えた循環というか物質代謝はここが基盤になります。繰り返しですが、それは人間主義的なリアリティから脱却しつつ、人倫の肯定を並行して進めるという、複眼的な思考に基づくものであるべきです。人類が生きている世界で人類が認識しない環境の変化はいくらでもありますが、人類が影響を与えており人類の力によって管理や変更が可能な環境もあります。恐らく、人新世という観念の要点は、人間の存在のあり方が変化していること(=ポストヒューマン=サイボーグ)と、自然のあり方も変化していること、双方をともに受容することなのでしょう。ホモ・サピエンスが実際に生きていることとその場所のリアルを、自然科学でとらえる空間や時間のスケールおよび自然条件の変化において、人間がどのように認識し経験し思考しているのか、同様に自然が動物が植物が地球がどのように認識し経験し思考しているのか、これらを複眼的に構築することが、新しいエコロジーの問いかけであり、ティモシー・モートンやヴィヴィエロス・デ・カストロらが投げかけていることなのでしょう。 

マルクス 資本論 全9冊 (岩波文庫)

マルクス 資本論 全9冊 (岩波文庫)

  • 発売日: 1997/06/12
  • メディア: 文庫
 

 

 

  

大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝 (Νuξ叢書)

大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝 (Νuξ叢書)

  • 作者:斎藤幸平
  • 発売日: 2019/04/30
  • メディア: 単行本
 

 ダーク・エコロジーを曲解すると、人間が起こした自然破壊や気候変動は人間でしか解決できないので、結局は人間に主体が主導権があり、地球環境を人類にとってハビタブルにするために何でもやる=何でもやっていい、そして人間とともにある限られた動植物のみが生き残る世界が出来上がる、という歪んだ未来像が呈示されます。しかし、本当に現在進行している自然破壊や気候変動などを人間が統御できるのか。もしこれらの危機を防げなかった場合、人間はいかに対応して生き延びていくべきなのか。人類が何もせずにこのまま気候変動や各種の環境問題が悪化し続けたとき、何億人もの人々が生存不能となるでしょう。それが現在の資本主義に基づく社会・政治・経済的な枠組みでは解決できないとしたら、あるいは指導者たちがあまりに愚かで解決できないとしたら、その先にある問いとその答えに哲学・思想は挑み、一定の解を出さなければならないはずです。

 自然破壊や気候変動は人間が原因であり、科学的な解決策も提示されています。しかし、できることはあるのにやろうとしない、人間が人間以外の生物種や将来世代に対して責任を持とうとしていない、というのが現在の姿でしょう。人類の絶滅や宇宙の滅亡を射程に入れたポストアポカリプスやポストヒューマンの哲学・思想は存在論的・形而上学的には意義があり意味がありますが、それらとは別の射程で今ある現実に立脚した議論が必要でしょう。私はSF者ですからフィクションとしてのポストヒューマンやサイボーグやミュータントは好みますが、自分自身がサイボーグやミュータントになりたくはないです。存在論的な議論と実践的な議論を有機的に連関させつつ並立させ、オーバーな加速主義やフェイクやヘイトや非知性や非科学を乗り越え、科学的・社会的な絵エビデンスに基づいて対処するという、複眼的な思考と行動が必要なのです。例えば、外来種の侵入を防いだり在来種を保護したりする立場と、外来種が侵入した自然を許容して共存を図る立場は、矛盾するものではなく並立するものなのです。 

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映画『天気の子』公式サイト

 『天気の子』は、東京が水没し世界が変容してしまったけれど僕たちはそれでもこの世界で生きていく、というポストアポカリプスの入り口で物語が終わりました。セカイ系のフィクションならそれでいいんですが、現実にこういう事態になれば、大量の死者や避難民が出て、莫大な経済的損失が発生し、日本の衛生環境が大きく悪化します。東京が水没しているということは世界各地も水没しているということですから、まずは貧しい人々から住まいを追われ、命を落としていくでしょう。資本主義の収奪に伴う一部の人々の豊かな生活、そして格差の問題の成れの果てです。同じような収奪を現在世代の我々が未来世代に対しても行っています。どうすればこの略奪を防ぐ仕組みをつくれるのか。それは科学的・社会的・政治的・経済的・倫理的な問いであり、根本問題的な反省であり、思想・哲学の問題でもあるはずです。そこに発生するのは、危機が起きた時の対応と危機を回避するための資源配分のビジョン、資本主義の収奪のシステムに変わって社会・経済的に人類がハビタブルとなるためのビジョン、人間と自然がともにあるためのビジョンなどなど・・・『資本論』にこの辺のことって全部書いてなかったっけ? 21世紀の我々は何周か回ったつもりでいて結局は19世紀末的な問いに立ち返っているだけかもしれません。かつてマルクスやカントが呈示した問いに対し、いまだ答えが出せていないということですね。

 (『天気の子』をdisるつもりはないので、あしからず)

 

【環境と身体⇒ダナ・ハラウェイ】

 もう少し環境や自然と人間=身体の関係性に踏み込んでみましょう。そうなると、ダナ・ハラウェイに触れざるを得なくなります。当ブログでも何回か書いていますが、彼女は私にとって最も重要な思想家です。

 ハラウェイの議論を大きくくくるとするなら、それは身体と外界の関係性、すなわち日本語では「伴侶種」と呼ばれる身体の・人間の内外にともに/かたわらにいる=ある存在たち(何か=誰か)と身体(=人間)との関係性についての考察 が発展してきた歴史だということができるでしょう。身体(=人間)とは界面=インターフェイスであり結節であり、身体(=人間)は様々な外界=他者=存在者と接続することによって定立しています。その接続および関係性(??)の議論がサイボーグ⇒機械と情報との界面、他の生物種、傍らに寄り添う犬や野生=野性の生き物たち、生き物たちとの協働、生物種にとどまらない生態系(⇒人新世およびクトゥルフ世)、そして人間同士の関係性に至るまで発展してきたのがハラウェイの議論であり、彼女の論は意思や情報の交換にとどまらず、フィクション的ですが人間と他種生物の遺伝子の交換であったり、人間が環境のーただなかにーあるー存在としてその思想や身体性や生物種としての次代を継承していったるするところまで見据え、展開されています。つまるところ、彼女の論は汎神的に拡がりながらも、「サイボーグ宣言」以来の出発点・立脚点を守り続けてきたのだといえるでしょう。

 ハラウェイといえば最も強く想起されるのはやはり「サイボーグ宣言」でしょう。後の「伴侶種」が生物種であったのに対し、このマニフェストにおいて人間に寄り添った/ともにあったのは機械であり情報でした。まず、前提として、1970~80年代にかけてのエコロジーフェミニズムの議論の中で(きわめて乱暴なくくりですが)、人間の身体を人間-自然という二元論においてどちらに置くのかという混乱、人間身体をいずれかの側に置いてそこに男性ー女性の二元対立も絡めて、人間の身体を男性的あるいは女性的な表象=表徴として一面的に飲みとらえるという混乱・誤謬が発生していた、ということを考慮に入れる必要があります。そこで、ハラウェイは、フェミニズムSFや魔術などにアイデアソースを得ながら、自然と人間、あるいは男性と女性の間で混乱していた諸々の事項の配置を整理して、そのただ中ー間隙ー余白に人間をインターフェイスとして布置することで、身体と機械と情報の結節であるマン=マシン=インターフェイスという概念を導きました。ハラウェイは「サイボーグ宣言」の最後で「私は女神ではなくサイボーグになりたい」というスローガンを謳い、魔術的なスパイラルダンスを踊りることで、彼女自身が結節であり界面であることを告白しました。マン=マシン=インターフェイスとは可動する/駆動する生き物であり、界面は複数/そこここに/あちらこちらに存在します。

 「サイボーグ」が機械と情報だけでなく生物種へと敷衍されたのが「伴侶種」という概念である、ともいえるでしょう。人間の内外には無数の伴侶種がいます/あります。自分はどのような伴侶種と/が/に対して/とともに、どのような/どれくらい/なぜ関係性を結んでいるのか、人間は日々意識的=無意識的にそれについて考察しながら生を送っています。一番分かりやすいのがペットと家畜でしょう。ペットは家族でありコミュニティの一員であり、人間と対等な存在であり権利を有する存在として扱われてきた、分かりやすい伴侶種です。それに対し、家畜は食料であり道具であり、人間が利用し消費する存在として扱われてきました。しかし、人間の生に欠かせない存在として一定の敬意を払われてきました。これもまた伴侶種です。ハラウェイにとっての伴侶種が、自分と他者との存在の関係性について、食卓を/生を共にする存在である、としてくくられた概念であるとするなら、食卓を共にするペットはもちろん、食卓の上にある家畜もまた敬意を払われる存在であり、伴侶種であるとみなされるべきです。そして、伴侶種の概念は機械や情報という非生物や、人間の腸や内臓に住む細菌、細胞内に共生する微生物などへも拡張されています。

 さらに伴侶種という概念を地球環境や身体の周辺の環境、そして人間同士の関係性まで拡張させたのが、『Staying With the Trouble』において彼女が人新世について考察したクトゥルフ世という概念です。この名称の由来はかの邪神ではなくカリフォルニアのハラウェイの自宅近辺に住むクモの名前Pimoa cthulhuであり、Pimoaはユタ州ネイティブアメリカンであるゴシュート族の言葉で「大きな足」の意、cthulhuは同じく「土の中」という意味だそうです。彼女の発想の源はラヴクラフトではなく近所の生活圏であり、それ以上でもそれ以下でもありません。ちなみに、「クトゥルフ世」の綴りはゴシュート語のchthonic「土の中」にちなんで「Chthulucene」となっています。日本におけるクトゥルフ世の議論においては、ハラウェイのクトゥルフ世概念は重要ではあるが、例えばラヴクラフトのホラーや幻想文学になどおける文学的な強度の高い単位とは異なるのだ、とする論調が目立ちます。極私的には、汎神論的な含意ないしメタファーとして、ハラウェイはラヴクラフトを参照項にしていると思います。ハラウェイは、人新世という概念を否定的に扱い、人類にとっての問題はホモ・サピエンスという生物種または存在論的な人間、あるいは人倫や実存などに帰着するものではなく、あくまで社会的・政治的・経済的なものであるとし、「資本」「植民」といったキーワードと「人新世」との置換を試みています。「クトゥルフ世」とは、ホモ・サピエンスと他種の生物および人間と自然=環境とが共存/協働/共同/共創する時代であり、ハラウェイがよく用いるメタファーであるCat's Cradle(あやとり)のごとく、無数の存在者と環境とがひもで結ばれており、存在者たちがお互いに関わり合って、状況に投企して、新たな関係性や継承や事象を生み出し、その相手や対象がたとえ生物でも非生物でも構わず、互いの関係性において伴侶種として寄り添い/ともにあり/ともに歩み⇒そして内破する、そういった時代であるとされています。ハラウェイが描くホモ・サピエンスとは、無数の伴侶種どうしであり、内外の無数の諸部分から形成されたサイボーグであり、いわゆるポストヒューマンですが人倫としての基盤を失っておらず、何よりも今ここにいる生活者です。流動的で境界的な21世紀の現在において、ハラウェイは、我々の身体の内外にいる=ある様々な存在者と共存/協働/共同/共創して、次なる時代をともに迎える存在として生き抜くために必要な思想・哲学を掲げ、行動に移ることを唱えています。生き物はみなつながっており、みな違います。性差をはじめとする様々な差異に満ち溢れて、つながっているからこそ、世界は面白いのです。非科学的で人種主義的で非知性的な安直な決定論者たちにしっかりと対峙し、多様性に満ちた身体と生物界と世界を作ることこそ、彼女が次代へと描いたビジョンなのでしょう。