越後屋ってどんなお店?
よく時代劇で出てくる「越後屋」。多分、日本人なら1回はその名前を聞いたことがあるだろう、有名な屋号ですが、実際にはどんなお店だったのでしょうか。
wikipediaなどの記事を少々補足しつつまとめてみましょう。
越後屋は三井高利が1673年に開いた呉服店です。現在の三越へとつながるお店です。それまでの商慣習を打ち破って、新しい商法で売り上げを伸ばしました。それまでの商慣習と越後屋の新しい売り方を比較してみましょう。
【それまでの商慣習】
①訪問販売
・見世物売り:得意先から注文を取り、後から仕立てて届けます。
・屋敷売り:商品を得意先に届けておいて、後日買わなかった物を取りに行きます。
②後払い
年2回の節季払いか、年末の極月払いという後払い方式。年を越すと取り立てができないので代金を回収できないことがよくあったそうです。
③掛け値
後払いなので、その分の利息があらかじめ商品の値段に入っています。
④お客が御大家のみ
客層を大名、武家、大商人などの身分が高い家か金持ちに限っていて、他の身分に顧客を広げようとしませんでした。
現代の視点からすると合理性を欠く面もありますね。では、三井高利がこれをどう変えたのかを見てみましょう。
【越後屋の商法】
①店先売り
不特定多数のお客が品定めをして買い物ができるように、広い店内にたくさんの店員を配置して、サービスに徹しました。
②現金売り・掛け値なし
後払いは認めませんでした。全てその場での現金のやり取りです。後払い分の利息がつかずに値段が安くなるので、お客にもメリットがありました。「正札販売」という定価販売を初めて行いました。
③即日仕立て
仕立て直しをその場で客が待っているうちに行いました。
④切り売り
反物単位での商売が当たり前だったのを、客の注文に応じて布をカットして販売しました。
⑤安く大量に売る
既に作ってある服特価品なども扱いました。
⑥チラシで派手に宣伝をする
⑦一般庶民をお客として呼び込む
並べて比較するとこんなところでしょうか。イージーオーダーとか、バーゲンセールとか、現代の商習慣にも通じるサービスが行われていたんですね。三井高利と越後屋の先進性が分かります。越後屋は非常に繁盛したそうですが、他の呉服屋から嫉妬や恨みを買ったため、店員を引き抜かれたり、悪口を広められたりするなど、様々な妨害にあったそうです。
1683年、天和の大火の影響で店が焼けてしまったため、江戸本町一丁目、現在の日本橋本町にあった店を駿河町に移しました。はじめは間口4間(約7m)からスタートした店が、ほどなく36間(約65m)になったそうです。また、駿河町移転に伴って両替商の商いも始め、これが現在の三井住友銀行へとつながっていきます。
その後、大阪にも進出し、順調に商売を進めていきました。大阪の店は大塩平八郎の乱で焼かれてしまったそうですが。
越後屋が革新的だった点は、コマーシャルの方法にもありました。ただチラシをまくだけでは面白くないと、越後屋の文字と三井の紋が記された傘を作って、雨なのに傘がない人たちに無料で配りました。これが「にわか雨振舞い傘を三井出し」と謳われ、大変な評判を呼びました。
越後屋の1年の収入は、例えば1745年には23万583両でした。1両を約10万円と考えると約23億5830万円ですか。ただし、1両は現在の貨幣価値には換算できないので、かなりアバウトな概算になります。この時代だと、だいたい20万石弱の大名の藩の収入が年に10~12万両くらいだったそうなので、ざっと見積もって30~40万石の大名並みの収入はあったということになります。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/history/historyfaq/1ryou.pdf
現在の三井に連なる大商家です。時代劇の決まり文句になるほどおなじみなのは、やはりきちんと理由があるということですね。
【参考リンク】
越後屋誕生と高利の新商法:江戸期|三井の歴史|三井広報委員会
【参考文献】
『図録 大江戸八百八町』2003,江戸東京博物館