otomeguの定点観測所(再開)

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劇場版『聲の形』短評⇒ついでに竹内を擁護してみた

 遅ればせながら、劇場版『聲の形』を観てきました。間違いなく傑作であり、今年観た劇場版アニメの中では最も優れた作品であり、2010年代を代表する劇場版アニメの1つだと思います。

 【原作を超えた傑作】

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映画『聲の形』公式サイト

映画『聲の形』公式 (@koenokatachi_M) | Twitter 

聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

聲の形(7)<完> (講談社コミックス)

 

  原作自体が2010年代を代表するコミックの一つであり、難聴という障害に正面から向き合って、思春期のみずみずしさ・華やかさ・残酷さ・痛み・不安定さなどといったカタルシスに満ちた要素を描き切った傑作でした。原作の優れた物語と描写を京アニがどう映像化してくれるのか、非常に楽しみにしていましたが、こちらの期待を大きく超えてくれましたね。原作の持ち味を損なうことなく、そこに映像ならではの動的な演出を織り込み、かつ原作の妙味をきっちり残したまま、物語を映画1本の尺に収めてみせました。いや、刈り込まれた分、情動の密度は原作をはるかにしのぐものとなり、カタルシスもいや増しました。京アニならではの美しい風景と繊細な演出が、みずみずしい心情描写の効果をさらに高めています。映画でカットされた場面には、もっと重く残酷なシーン、メッセージ性の強いシーンなどもありますが、尺が限られていることを考えるとやむを得ない判断だったと思いますし、映画の出来を損なう要素ではありません。将也と硝子のコミュニケーションに焦点を当てた構成には、作り手が作品に込めた真摯で豊かで愚直で愛おしい感情が溢れています。改めて京アニの底力を見せつけられたとともに、彼らのラインナップにまた一つオールタイムベスト級の作品が加わりました。

 こんな陳腐な感想をグダグダ読んでいるよりも、とにかく一度、観るべきです。

 

【竹内を擁護してみた】

 さて、原作でカットされていたシーンの中に、小学校のクラス担任・竹内のゲスっぷりを強調するシーンがありました。こいつは教師でありながら硝子へのいじめを黙認し、時には自ら攻撃さえしたくせに、いざとなったらいじめの責任を将也にすべて押しつけたという、ろくでもない教師として描かれています。さらに、後に将也と再会したときにも全く反省の色も謝罪の色も見せませんでした。ピュアな少年少女たちと対置され、汚い大人の象徴として竹内は作品最大のクズという立場を確立しています。他にもろくでもない大人はいろいろ出てきますが、竹内ほどカリカチュアされて描かれている人物はいないでしょう。

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 竹内をぶったたくのは簡単なのですが、多分誰もこいつのことを擁護しないと思うので、ここでは彼の立場に立って擁護してみましょう。

 そもそも、どうして難聴の児童を健常児の学級に放り込むのでしょうか。小学校高学年は精神的成長に伴い思春期のはじめを迎えて反抗期も入ったりして感情が不安定で、いじめなどの子供特有の残酷さがただでさえ出やすい時期です。そこにいじめの対象になりやすい障碍者を放り込むなど、火に油を注ぐ様なものじゃないですか。健常の生徒を抱えるだけでも楽ではないのに、そこに障碍者を放り込まれたら、ほとんどの教師の管理能力のキャパを超えた事態となります。

 子供に障碍者に対する配慮を教育しろ、いじめが起こらないようにきちんと管理しろ、外部の人間は好き勝手言いますが、現場にいないからそんなことがいえるんでしょう。障碍者も健常者と同じ環境で学ぶべきだというのは、一見美しく聞こえますが、単なる親のエゴです。大人たちが自己満足のために子供を過酷な環境に放り込み、そのことを美徳だなんだと持ち上げるバカな大人たちがいる。そのために、現場にどれだけのしわ寄せがくるのか分かっているのか。

 難聴の生徒にも理解できるような授業を工夫しましょう、コミュニケーションの努力をしましょう、自分の授業技術を向上させるいい機会としましょう。これも無責任な外部からの物言いですよね。授業内でしゃべる内容をすべて板書せよというのですか? 難聴の生徒にゆっくり語り掛けるように授業をし、授業の速度を落としてでもきちんと理解させるべきだというのですか? 何もやらない人間が無神経なことを言うな。読唇のできる生徒ならともかく、こちらの口の動きを理解できない生徒にいくら語りかけても、授業に必要な学科のやりとりは成立しません。読唇の出来る生徒を一番前に座らせたとしても、全ての内容を理解させることは不可能です。それに、難聴の生徒に配慮して学習内容のレベルが落ちたといって、今度は健常の親たちからクレームが入ることもあるんです。いったい何を優先すればいいというのでしょうか。

 特別支援学校があるのですから、障害のある生徒は専門の学校で学ぶべきであり、無理やり健常者に混ぜるべきではありません。少なくとも、特殊学級として謙譲の生徒とは別の教室で学ばせるべきです。これは障害のある生徒を差別するのではなく、きちんとした設備があって技術を持った教師のいる環境で学ぶべきだということです。健常者の中に無理やり障碍者を混ぜるから、生徒にも教師にもストレスがかかるし、もろもろのトラブルが発生するのです。西宮硝子は最初から特別支援学校に行くべきでした。それなのに無理やり普通の学校に通わせたから、繰り返しいじめの対象になり、天候を余儀なくされたのです。現場の教員に責任を押し付けて、トラブルの根本原因から目を背けるのはやめるべきです。全ては西宮硝子の親のエゴが引き起こしたことなのです。

 

 ・・・と、こんな感じでしょうか。我ながらなかなかひどいことを書いていますね。でも、障碍者を無理に健常者と一緒にせず、特別支援学校にきちんと通わせるべきだというのは、決して的外れな意見ではないし、一面の正論であると思います。