otomeguの定点観測所(再開)

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吉田喜重『贖罪』短評

 今回のレビューは4月に発売された吉田喜重『贖罪』です。

  

  この本が題材にしているルドルフ・ヘスといえば、いわずと知れたナチスの最高幹部にしてヒトラーの右腕だった人物です。1941年にイギリスとの講和工作のため単身スコットランドに飛び、戦後は戦犯として収容された・・・というのが歴史の定説です。しかし、渡英以降のヘスについては替え玉説もありますし、本当に和平工作のためにイギリスに渡ったのか怪しい面もありますし。謎の多い人物だけに歴史小説の題材としてうってつけなのでしょう。極私的にはゴルゴ13におけるヘスの扱いこそ正史であってほしい気がしますが。

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 作中では作者自身が語り手となり、ヘスと自分の人生を重ねています。この本は大きく分けて4つの章立てになっています。最初は作者の戦時中の思い出とヘスに関心を持つようになったきっかけ、2章はヘス自身の手記と機密文書、3章はヘスと親交のあった人物たちによるヘス評および4章につながるギミックとしての遺書、そして4章はヘスによる最後の独白。最もページが割かれているのは2章における機密文書です。しかし、文書の筆者は不詳、原語はなぜかドイツ語ではなく英語、しかも語り手が怪しげな翻訳というフィルターをかける、と信憑性を疑わせる網がいくつもかぶせられています。ドキュメンタリーのように構築された作者の騙りは甘美ですが、この本はあくまでヘスについての実話ではなく虚構。歴史小説の体裁をとった作者の自分語りであり、同時に歴史そのものの危うさや虚構性をもあぶり出しています。最終章では語り手がヘスに成り代わって贖罪をしていますが、それもまた虚構。最初は作者と一体だったはずの語り手が一キャラクターとして切り捨てられている様に、却って冷徹に歴史を眺めている作者の理性を感じます。歴史とは所詮過去なのですから、やはり理性的に適度に距離を置く程度でちょうどいいのでしょう。

 歴史や事実を権力者が捏造する反知性主義が跋扈する現在、現実世界における事実・真実は強者の観点から裏付けられた一面的なものになりつつあります。フェイクをフェイクとして見ぬき、愉しむ理性を忘れ、独善的な解釈を施して真実を構築する、愚かな権力者たち。三文小説にすらならない自分語りに酔いしれる独裁者たち。彼らに迎合しない知性と理性を保つためにも、歴史や文学を正視することは重要なのでしょう。