2016SFセミナーレポートその5 合宿「ナイトランドセッション出張版 ナイトランド叢書のいままでとこれから」「MELANO MUSEUMの謎」
では、SFセミナーレポートのラスト・第5弾はアトリエサードの企画に参ります。合宿企画が2つつながっていますが、同じ部屋で連続して行われた企画なので、まとめてレポートします。といっても、企画内容と無関係のことを含めて、私が岡和田晃さんや岩田恵さん、植草昌実さんといろいろ話した内容を無軌道に連ねていく形式になりますので、どうかご容赦ください。
【ナイトランド・クォータリーおよびナイトランド叢書】
まずは、昨年アトリエサードから復活なった《ナイトランド》についてですが、その経緯については昨年のSFセミナーのレポートにまとめましたので、キャッシュからサルベージしたものを再掲します。
【2015SFセミナーレポートのサルベージ】
《ナイトランド》といえば、2012年に創刊された怪奇・幻想文学の専門誌です。《季刊・幻想文学》以来久々の怪奇・幻想の専門誌なので期待していたのですが、残念ながら7号で休刊になってしまいました。トライデントハウスが採算度外視でやっていたそうですが、結局、赤字の累積を支えきれなかったようです。しかし、《ナイトランド》は復活しました。アトリエサードに移り、準備号を経て、今月いよいよ復活号が発売されました。
アトリエサードのスタッフは採算をとることの大切さをパネルで強調していました。利益を出さなければ商売を続けることはできません。旧《ナイトランド》は採算ラインを度外視していたうえ、さらに採算ラインの設定自体も甘かったそうです。新生《ナイトランド》では、採算ラインを現実的な設定にしたうえ、採算をとるために編集にあえて厳しい態度で臨んでいるようです。
また、販路の確保も改革されています。旧《ナイトランド》は取次ぎを通さない直販および定期購読でした。私は定期購読で送ってもらっていました。扱いのある書店は直販で仕入れていたそうです。アメリカでは、リトルプレスの書籍やセミプロジンなどは直販および定期購読のところが多いので、そのやり方に倣ったのだそうです。確かに、読者と密なつながりを作るという点では、定期購読を主とする運営は良い点もあるのでしょう。
しかし、このやり方では十分な数の読者を確保できませんでした。やはり日本では、書店で手に取りたいという多くのお客さんをスルーしてしまうと、採算をとるのは厳しいようです。それに、直販の本は管理が面倒であるため、置こうとしない書店も多いと思います。直接、営業が来て管理をしてくれる永岡書店などは別ですが。以前、私が勤めていた書店チェーンの中には、直販の本を一切扱わないところもありました。
アトリエサードでは、《ナイトランド》を普通に取次ぎを介して売ることにしたそうです。これで多くの書店に出回ることになるので、読者数を確保できるでしょう。アトリエサードといえば《トーキングヘッズ》が看板商品ですが、もともとはSFや文学を扱う同人誌で、最初期にはブコウスキーやチュツオーラなどの特集も組まれていました。同人誌から商業誌に姿を変え、現在までしっかり続いています。SFや文学だけでやっていくのは難しいので、アートを取り入れて徐々にビジュアルを形成しながら、現在の姿になったのだそうです。現在の《トーキングヘッズ》は、変流のアート雑誌として一定の評価を得ています。《トーキングヘッズ》にまつわる話からは、アトリエサードのスタッフの矜持がひしひしと伝わってきました。このノウハウを用いながら、新生《ナイトランド》を売るため、アート誌的なビジュアルや、キム・ニューマンの作品を収録するなどの工夫をしたそうです。
せっかく復活した怪奇・幻想の専門誌です。私は買います。支えます。
幸い、新生《ナイトランド》は存続に必要な部数を売ることができたようで、5号以降も刊行されます。第5号ではキム・ニューマン、ディクスン・カー、ダイアン・フォーチュン、ニール・ゲイマンなどの短編を乗せるそうで、非常に豪華なラインナップです。今月発売予定なので、楽しみに待ちたいと思います。
続いて〈ナイトランド叢書〉ですが、第1期はこんなラインナップでした。

失われた者たちの谷〜ハワード怪奇傑作集 (ナイトランド叢書)
- 作者: ロバート・E・ハワード,中村融
- 出版社/メーカー: 書苑新社
- 発売日: 2015/08/07
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
- この商品を含むブログ (2件) を見る
幸い、こちらも採算ラインに乗ったそうで、第2期が決定し、次のように予告されています。
クラーク・アシュトン・スミス『魔術師の帝国』
M・P・シール『紫の雲』
マンリー・W・ウェルマン『ジョン・サーストンの事件簿』
E・F・ベンスン『塔の中の部屋』
オーガスト・ダーレス『ミスター・ジョージ』
アルジャーノン・ブラックウッド『ウェンディゴ』
作家名とタイトルが並んだだけで、よだれの出そうなラインナップですね。怪奇・幻想の徒としては必携の書であることに間違いないので、楽しみに待ちたいと思います。
この他、アトリエサードからはケイト・ウィルヘルム(!!)のSF作品や、TRPG『トンネルズ&トロールズ』の小説版の刊行などが予定されているそうです。こちらも非常に楽しみですね。
【怪獣狂言】
(のめらにゃん斎facebook)
上に映像を挙げた狂言紙芝居で、怪獣を題材にした怪獣狂言(もののけものきょうげん)なるものが上演されました。狂言の節回しを謡いながらユーモラスな紙芝居を展開するもので、SFセミナーに合わせて怪獣が出てくる演目を上演なさっていました。
味のあるやさしい絵柄、ウィットに富んだ節回し、ばらまかれたユーモア、SFファンの勘所をきちんと押さえたオチなど、こちらの琴線をぐいぐいと刺激してくる、非常に面白い上演でした。
演目の名前はメモを取っていないので、忘れてしまいました。すみません。
【文学の過去と未来展 & 前橋ポエトリーフェスティバル】
今年、残念ながら、アトリエサードは前橋ポエトリーフェスティバルの主催から外れたそうです。同時期に『文学の過去と未来展』をやるそうなので、岩田さんからポストカードをいただきました。でも、前橋、しかもGallery Art Soupってポエフェスの展示も開催されるところじゃないか・・・というところでやるので、事実上、ポエフェスの一部じゃないかという気もしますが。今月、急な仕事が入らなければ前橋に行けるはずなので、後でポエフェスとまとめてレポートするつもりです。
【MELANO MUSEUM】
合宿4コマ目の企画の表題になっていた本ですが、こちらです。

MELANO MUSEUM〜イタリニャ大公国、猫の名画コレクション (TH ART SERIES)
- 作者: 目羅健嗣
- 出版社/メーカー: アトリエサード
- 発売日: 2016/02/29
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (2件) を見る
のめらにゃん斎こと目羅健嗣さんの画集です。よく知られた名画に猫が侵入した絵がずらりと並んでいます。イタリニャ大公国のMELANO MUSEUMの展覧会が開かれてその画集として刊行された、という設定で、岡和田晃さんの解説を含めてメタ的な裏設定がいろいろあるそうです。岡和田さんと岩田さんがいろいろ解説してくださっていたはずなのですが、半分酔っぱらっていたせいでよく覚えていません・・・。
画集単体として見てもユーモラスで愛らしく、特に猫好きの方なら必携のアイテムだと思います。今度、ひまなときがあれば、ページを繰りつつ設定に思いをはせてみるつもりです。
【思弁的実在論関連】
アトリエサード関連でどうしてこのキーワードが出てくるのか? と思う向きがあるかもしれませんが、《ナイトランド・クォータリー》第4号で岡和田晃さんの思弁的実在論の論文が掲載され、5号でも載る予定だそうです。それで、岡和田さんといろいろ意見交換をしてきました。思想・文学関連の研究者はホラーや幻想文学を全く読んでいないとか、逆にSFサイドの批評家は理論的な文献をほとんど読んでいなくてドゥルーズさえ怪しいとか、酒の影響もあって危ない話がいろいろ出た気がします。でも、記憶が不確かなので、これ以上はご勘弁ください。
とりあえず、4号の岡和田論文への反応テキストをサルベージします。
【岡和田論文への反応テキスト】
結論、極めてエキサイティングな論考で、知的昂揚を覚える文章でした。こういうものを読みたかったし、待っていたんです。思弁的実在論および新しい唯物論において、これまで哲学・思想サイドからSF・幻想文学・ホラーに対してアプローチを行った論考はこれまで何本も読んできました。しかし、チャイナ・ミエヴィルを除けば、SFサイドから思弁的実在論に対してアプローチを行った原稿は、特に日本人の論考としてSF系の商業誌に掲載されたものは、これが初めてだと思います。最近は同人誌や紀要などを全く追い切れていませんし、商業出版物のチェック量もかなり落ちているので、断定するのは危険なんですが。SF・ホラーなど文芸評論の側においては、まだ思弁的実在論や新しい唯物論の理論的受容が不十分なのでしょうか。一方、哲学・思想サイドからSF・幻想文学・ホラーなどにアプローチした論考を読むと、ジャンル小説についての読書量が明らかに足りない論考が多く、読みながら不満を覚えることがよくありました。今回の岡和田晃の論考は、理論的な租借が十分になされたうえで、当然ですがSF・ホラーについても精通していて、哲学と文芸の両者を架橋した見事なテキストだったと思います。
当ブログでも思弁的実在論については稚拙なエッセーを何本か書いてきましたが、すみません。素人の雑な仕事の上、完全な誤読を行っておりました。岡和田論考を読んで、当ブログの幼稚さを痛感した次第です。
これまでグレアム・ハーマンはラヴクラフトを誤読しているとえらそうなことを書いてしまいましたが、訂正します。私のハーマンのテキストに対する読みが浅く、私がハーマンを誤読していました。そして、思弁的実在論についてきちんと理解することなく、従来の唯物論に基づいた安易な解釈を行っておりました。謹んでお詫び申し上げます。
岡和田論考をもとにざっくりまとめますと、思弁的実在論とは、カントの超越論哲学の超克を試みつつ、表象として世界をとらえる認識論です。「物自体」を認識不能とみなすのではなく「物自体」はそもそも不確定なものだとして理解されます。端的にいえば、実在しない実在について、実在しないこと自体をとらえようとする認識論であり存在論です。ここでは人間中心主義が超克され、強い相関主義を有する観念論、つまりドゥルーズの思弁哲学が召喚されます。恐怖小説における名状しがたい幻惑や美をそれ自体として、不確定なものとしてとらえること、それがハーマンの述べる「怪奇的オブジェクト」でした。ハーマンの「怪奇的オブジェクト」について、「物自体」は認識不能であるとする従来の唯物論に基づいて解釈したため、私の誤読は発生しました。誤読を認識したことで、少しは正しい議論に近づいていければいいのですが。
さて、今後の議論の発展ですが、SFサイドからもどんどん反応が出てくるといいですね。思弁的実在論を駆使した批評の領野は恐怖小説にとどまらず、例えば、サイバーパンクSFの再評価、『serial experiments lain』を筆頭としたサイバーパンクの系譜に属するアニメ・コミック批評、レムなどの思弁的SFの批評、ファンタジー・幻想文学における「神とは何か」「超越者とは何か」という異世界での根本問題に対する認識論的考察、SF詩の読解など、豊饒な可能性を有していると思います。今後のSF・幻想文学・ホラーなどの文芸批評の展開をしっかり追っていきたいものです。
恥をさらすようですが、誤読を吹聴していた以前のテキストのサルベージがこちらです。
【従来の唯物論に基づいてハーマンを誤読したテキスト】
以前書いたことと重なりますが、思弁的実在論をはじめとする21世紀の唯物論・存在論においては、これまでSF・ファンタジー・ホラーなどにおいて展開されてきた感覚やイマージュの世界が現実世界における理論として現出してきたということ。すなわち、虚構と現実の境界が融解した現代世界において共感覚的な沃野を揺蕩うという知的快感が魅力です。そして、思弁的実在論ほかこれら新しい存在論は新たな文芸批評・文化批評の言語を創造する可能性を有していると思います。
SFにおいてはサイバーパンク以降の意識とは何か・神とは何か・人間とは何かという形而上的な問いかけ、およびレムがソラリスにおいて展開したような存在論的思弁にシンクロします。
ファンタジーや幻想文学においては、超自然的・霊的・魔術的・神的存在などについて、物語内の登場人物たちがいかにこれら超越的存在を知覚・認識しているについて論じる、認識論的展開が考えられます。幻想の世界に生きる対自にとっては、神や霊や魔術はまぎれもなく実在であり、しかも超越性を有する実在です。人ではないものが人の圏域を超えて存在するという、現実世界の我々以上に過酷な認識世界を生きている登場人物たちが、超越的存在や世界をいかに認識しているか、について存在論的な思弁で切開することができれば、ファンタジーや幻想文学の解釈の可能性が大いに広がると思います。
ホラー・怪奇については、すでに思弁的実在論の議論の中で幾重にも展開されていますが、これまで我々怪奇・幻想の徒が感覚的に摂取してきた霊的・魔術的・神的な存在に対する恐怖や畏怖の念を批評言語に置き換えていくという知的快感が魅力です。
文芸批評という点については、まだSFなどジャンル小説の側からの反応がほとんど出ていないような気がするので、これから議論が深まるのを期待したいところです。
しかし、一方で、SF・ファンタジー・ホラーの愛好者という側から見ると、思弁的実在論者たちによる誤読や、ジャンル用語の安易な使用が目につきます。「哲学のホラー」「ホラーの哲学」と名乗り、ラヴクラフト御大に突っ込んでいくからには、怪奇・ホラーにおいて重ねられてきた様式美をきちんと踏襲してほしいところですが、どうも迂闊な真似をしている輩がいる気がします。こういう書き方をすると、ひねた読者が狭量な議論をしているととられそうですね。でも、その通りです。狭量でいいんです。敷居が高くていいんです。長年にわたって形成されたジャンルの様式美をきちんと理解せず土足で踏み込む闖入者に対して相応の対応をするのも、ジャンル愛好者の楽しみの一つですから。
グレアム・ハーマンをぶったたくとオブジェクト指向存在論の根幹が揺らぎかねませんが、怪奇・幻想の徒としてはハーマンの読解には違和感を覚えます。ホワイトヘッドからハイデガーを介した流れにおいて、個体的存在者が退隠(wuthdrawal)し、認識において個体間の関係性の把握が先行してしまうため対自間では表面的で間接的な関係性しか結べない、というハーマンの論は、先行する現象学や存在論の流れを受け継いだあくまでオーソドックスな議論です。
ただし、ハーマンのこの論はあくまで、お互いが人間であるという存在了解がアプリオリに存在するから成り立つ論です。認識しようとする相手が人ではないもの、例えばラヴクラフトの小説における邪神が相手となると、話が大きく変わります。邪神は異世界の存在であるため遭遇者に対して直接的に現前せず暗示的に語られる、とハーマンは論じます。邪神の存在が背景に後退して風味と化して怪奇的なオブジェクトとなったところに、ハーマンはラヴクラフトの作品における恐怖の源泉を見出しています。しかし、これが誤読だと思います。
異世界の存在であろうとあるまいと、邪神たちは人間に対してあまりにも直接的に現前します。そして、邪神の存在が人間にとって認識や知覚の閾を超えた強烈なものであるがゆえに、人間は邪神や魔物を暗示的に認識せざるを得ません。邪神を真正面から見たら人間は発狂しますから、理性を保つために意識的にせよ無意識的にせよ邪神の現前から目をそらさざるを得ません。だからSAN値があるんです。邪神の極めて圧倒的な実在にこそ、ラヴクラフト作品の恐怖の源泉があります。ハーマンの解釈のように人間と邪神の関係が間接的で表面的な関係性にとどまるのであれば、あるいは邪神が暗示的に知覚されるぼやけた存在であるならば、邪神と接した人間が根源的な恐怖に至ることはないでしょう。
ハーマンは、ホワイトヘッド解釈において存在者としての人間に強い個体性を見出しています。しかし、ラヴクラフトの邪神からは個体性を除去し、存在者としての邪神を意図的にぼやかす読解を行います。これは邪神に対する冒瀆に他なりません。
また、ハーマンはラヴクラフトの作品に科学性やリアリズムの影響を見出し、幻想文学やファンタジーとは異質の作家だという論を展開します。しかし、ラヴクラフトはあくまで怪奇・幻想の作家であり、科学的なリアリズムを追求するSF者でも文学的なリアリズムを追求する文学者でもありません。たとえ科学的知見をエッセンスとして取り入れた作品であっても、ラヴクラフトの作品は散文詩的に解釈して豊饒な怪奇・幻想小説として味わうべきものであり、ハーマンの読解は哲学的な観察に偏りすぎています。
なんだか狭い了見からの批判になってしまいましたが、それでもなお、ハーマンやメイヤスーの論がSF・ファンタジー・幻想・怪奇などジャンル小説や文化批評の枠組みにおいて有用であることは間違いありません。まあ、いろいろ遊びながら徐々に消化し、活用していけばいいかなと思っています。
結局、怪奇・幻想の徒を自認しているのに、恐怖の解釈に従来の唯物論の枠組を持ち込んだため、私の誤読は生じていました。もう一度、思弁的実在論関連の文献をきちんと消化するとともに、ドゥルーズも読み直さないといけないと痛感しています。以前、レムについて従来の唯物論および現象学に基づいた解釈テキストを挙げましたが、これも再考の必要がありそうですね。昨年のSFセミナーのレポートのサルベージです。
【2015SFセミナー「スタニスワフ・レム・ルネサンス」レポート】
レムは、アシモフやハインラインなどの類型的アメリカSFにおける思弁の低さをこきおろしました。「ロボット3原則」なるたわけた設定で世界設定を狭め、表面的な思弁に終始したSFに我慢がならなかったのでしょう。レムにとってのSFは哲学的思弁に基づく文学であり、作品世界に思想性のない小説は屑なのです。酩酊している感もありますが、神とは何か。世界とは何か。存在とは何か。生命とは何か。宇宙とは何か。根本問題に迫る思惟が存在しなければ、その作品に価値はありません。ディック〈ヴァリス〉やスミス〈人類補完機構〉には、世界や宇宙や人類や神や存在者に対する根本問題的なアプローチがあります。だからレムはディックやスミスを評価したのでしょう。
『ソラリス』は異種の知性によるファースト・コンタクトの物語です。アメリカSFでは言語や認識の枠組みの違いをすっ飛ばした安易なコンタクトがよく描かれますが、レムは異質な知性の接触を多義的な視点から描きました。生命あるいは知性とは懐疑的であり多義的なものです。視座によって認識が思考が思索が想念が変容するため、真実は懐疑に包まれて消失します。沼野充義の説では、ケルヴィンと(ソラリスが創り出した)ハリーの関係は疑似恋愛的なものだそうですが、この疑似恋愛とリアルな恋愛はどこが違うのでしょうか。所詮、人間が有する精神や人格と、疑似的にあるいは人工的に創造された知性が有する精神や人格の間に、本質的な差異などありません。人間の精神あるいは人格が定立する基盤は極めて不確かであり、実存としての人間の本質など何もない。認識論においても現象学においても、懐疑論の思弁では、このような循環的な論がまず基盤におかれます。疑似的に創造された精神ということでは、こんな作品もありました。
『ソラリス』を小説としてではなく生命論および認識論の哲学書として解してみましょう。『ソラリス』だけでなくレムの小説の多くは小説ですが小説ではありません。レムは物語ることの欺瞞性をよく知っていたので、小説ですが小説ではない手法で作品世界を描きました。リアルではないけどリアルであり、不可知的ではないはずだが不可知的なものが存在しないはずだけれども存在する、豊饒で多義的な世界です。レムの世界では、人工的に創造された不可知的ではないはずのものが不可知です。ノイマンのサイバネティクスにおいては、生命や意識も機械論的な機械であり、知性とは入力・出力のシンプルな関係性で説明しうるものだとされます。しかし、生命は既存のコンピューターや機械とは異なります。単なる生命機械ではなく機械生命でもなくそもそも『エデン』で示されたように機械生命には真に生命たる根拠がないのですからもっと本源的に生命への道筋を示さなければならないわけですがそこにあるのは生命論的な機械でありながら機械論的な生命であってつまりは両義的・多義的な存在です。認識しえない・不可知であるということを前提に論が立てられ、作品が定立します。ウィーナーのサイバネティクスにおいては、生命とは中身を認識できず統御できないブラックボックスのようなものですが、レム『ソラリス』はこの思想に近いといえます。ブラックボックスの中は不可知であるため、不可知であるものを思索するため、認識しえないことを前提として徹底した懐疑論が展開されます。極私的には、これは現象学の思弁に近いと思われます。
現象学的には、ハイデガー『存在と時間』における概念を『ソラリス』的に変形させることで妥当な理解ができると思います。サルトル『存在と無』だと意識=コギトという言語論的展開にいってしまうので『ソラリス』にぶつけるには存在論としての思弁が不十分ですし、メルロ=ポンティやレヴィナスだと身体性が強いから『ソラリス』に適用するには不適切ですし、ガダマーはサルトルと同じくあまりに言語論的ですし。『ソラリス』においては、徹底的な懐疑の果てに自分という存在すら括弧にくくってしまい、精神と身体という単純な二元論を透徹して、存在者が存在するかどうかということそのものを問う存在論的な思考が行われています。ハイデガーの現象学においては、存在者が暗黙の裡にでも存在者が存在することを了解しているので、その基盤となる時間性を証明することで存在論的な問題の根源が解決されます。しかし、『ソラリス』における存在者は、自分あるいは他者が存在していることを了解できないため、存在論的な問いを永劫回帰のごとく続けます。レムはハイデガーの時間性の観念を了解しつつも、存在者が存在することを果たして本当に存在者が了解できるのかという、さらに根本問題的な問いを行っています。ハイデガーにおける存在者が自己と他者の存在を了解するとき、そこには実存=人間であるという思惟の基盤があり、各自が人間として人称されるという各自性の基盤があるため、存在者は客体的に認識されないという前提があります。しかし、異質な知性どうしが接している『ソラリス』では、各自性の基盤がないため、存在者による存在了解が行われません。ここに認識論的な破綻が生じます。レムは『ソラリス』で、この破綻を修復するため惑星知性による様々なコンタクトの試みを描きました。レムは認識論・存在論的な裂け目を鮮やかにSFに仕立てるというとんでもない離れ業をやってのけたのです。だから『ソラリス』の思弁は圧倒的なスケールを有しているのでしょう。
大野典宏はレムを訳していると気が狂いそうになるとも言っていました。レムの文明批判的でダークな側面が精神を蝕むこともありますが、とにかくレムの強烈な思弁が脳に疲労とダメージを与えていくのだそうです。狂気に至る至福の読書体験ということですね。
とりあえず、《ナイトランド・クォータリー》第5号の岡和田論文を読んだら、想がまとまったところで反応をテキスト化する予定です。思弁的実在論については今年も追いかけ、ブログに時々アップすると思いますので、飽かずお付き合いいただければ幸いです。
【関連リンク】
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