otomeguの定点観測所(再開)

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《ナイトランド・クォータリー》vol.5 「アリス&クロード・アスキューと思弁的実在論/岡和田晃」への反応

 前2つのテキストで思弁的実在論関連のサルベージが終わりましたので、毎度遅ればせで恐縮ですが、表題の岡和田晃論文への反応のテキストを書いていきたいと思います。

 

ナイトランド・クォータリーvol.05 闇の探索者たち

ナイトランド・クォータリーvol.05 闇の探索者たち

 

otomegu06.hateblo.jp

 岡和田晃の前回のvol.4の論文は、思弁的実在論について私の誤読を修正する示唆を与えてくれるとともに、思弁的実在論関連の論文において初めて哲学・思想関連とSF・ホラー・幻想文学関連を架橋した、画期的な論文でした。欧米においては、思弁的実在論の論者がラヴクラフトなどの怪奇幻想を分析・批評の対象としてきましたし、チャイナ・ミエヴィルなどSF・ファンタジーの側からも思弁的実在論を取り込んで批評を試みるアプローチがありました。しかし、日本においては、思弁的実在論を紹介している哲学・思想サイドの論者たちや一部の文芸批評の論者たちが、SF・ファンタジー・怪奇幻想に対する読書量が非常に少ない、というかほとんど読んでおらず(「名状しがたいもの」を「名前のないもの」と平然と表記する無神経な論者がいるくらい・・・)、また、逆にSF・ファンタジーの側の論者たちの批評理論の認識がせいぜいポストモダンあたりに止まっていて、思弁的実在論を文芸評論に組み込もうとする動きがなかったため、2つのサイドが連動していないという物足りなさがありました。今のところ、岡和田晃が理論サイドと文芸サイドを架橋できる唯一の論者でしょう。紀要や同人レベルの文献などはチェックしきれていないので、漏れがあったら申し訳ありませんが。

 前回のvol.4の岡和田論文は、ドゥルーズを使って思弁的実在論の基本的な観念を確認するとともに、思弁的実在論オブジェクト指向の哲学などの新しい唯物論がいかに恐怖小説に適用されるか、そして恐怖小説における恐怖そのものを物象化しつつ物象化されない恐怖そのものとしてあぶり出し、観念を観念そのものとしてとらえる思弁的実在論のアプローチがユング元型などのように恐怖を存在論的・超越論的にとらえるうえで非常に有効であるという、思弁的実在論ジャンル小説に適用する際の基本原理について示唆を与える論文でした。この議論を前提として、今回のvol.5の岡和田論文は、探偵小説と怪奇小説の境界線上の作品である〈幽霊狩人カーナッキ〉および〈エイルマー・ヴァンス〉を題材として、Oliver Tearleの〈エイルマー・ヴァンス〉の論文で用いられていたツヴェタン・トドロフの文学テクストにおける幻想性の構造分析を手がかりに、恐怖を恐怖そのものとしてとらえる思弁的実在論の解釈が幻想怪奇以外のジャンル小説の解釈にいかにして拡張されうるか、という可能性について示唆を与える論文になっています。 

幻想文学論序説 (創元ライブラリ)

幻想文学論序説 (創元ライブラリ)

 

  重要なポイントは、トドロフが定義したテクストの幻想性が成立するための3つの要件のうち、岡和田が3番目に触れているものでしょう。

すなわち、読者が「詩的」解釈も、「寓意的」解釈も、すべて拒むのでなければならない」

 この定義を作中人物および読者に適用することで、岡和田は作中人物と読者を存在論的に同じ位相へと布置した上で、

読者は「詩」にも「寓意」にも回収しきれない宙づりの状態で、〈ウィアード〉な境界(ボーダー)を彷徨うことを余儀なくされるのである。

  と、述べています。重要なのはこの「宙づりの状態」で、読者も作中人物も、〈エイルマー・ヴァンス〉における霊的現象あるいはオカルトや霊そのものを、物象的であるが物象的でない中間的な状態として認識しているということになります。従来の唯物論から見ればあいまいな余白を残したこの状態こそ、思弁的実在論が観念を観念そのものととらえて、世界を

「いかなるものであれ、それを滅びないように護ってくれる究極の法則が不在である」(メイヤスー『有限性の後で』)という世界の変化可能性―相関主義の裂け目としての〈ウィアード〉な「偶然性(Contingence)」―が絶対化された事実として示される世界

 と、認識論的に認識するための基盤となりうるものなのでしょう。

 また、岡和田は論文の結びでこの「〈ウィアード〉な偶然性が絶対化された事実として示される」認識世界を、

人間が生まれる前の「祖先以前的(Ancestral)」な世界

 と、評しています。岡和田は「祖先以前的な世界」「〈ウィアード〉な偶然性が事実性として示される世界」に基づいた作品解釈を、ユング元型的・アニミズム的な概念世界へと回収しつつ〈幽霊狩人カーナッキ〉〈エイルマー・ヴァンス〉に適用することで、思弁的実在論的な文芸解釈の領域を恐怖小説から探偵小説へと外挿・敷衍しました(オカルト探偵なのでまだ怪奇幻想の系譜に乗っているではないかと指摘されたら、反論が難しいかもしれませんが)。

 今回の論文で思弁的実在論的な解釈の可能性が探偵小説やミステリまで拡大された、とまで考えを進めてしまうのはまだ尚早だと思いますが、思弁的実在論の解釈を拡張する可能性を示した論文として、興味深い視座を与えてくれるものでした。徐々に論の射程が延びているのを感じますので、次の展開も楽しみです。