otomeguの定点観測所(再開)

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2020極私的回顧その24 思想・評論(シェリングと実在論とハイパーオブジェクト)

 極私的回顧24弾は思想・評論です。毎度のお断りですが、リンクを張ったテキストを中心に、2020年に複数の問題関心から読み飛ばした複数のテキストや文献を参照しながらテキストを書き飛ばしております。あしからず。

 2019極私的回顧その24 思想・評論 - otomeguの定点観測所(再開) (hateblo.jp)

2018極私的回顧その16の3 思想・評論(思弁的実在論SR・オブジェクト指向存在論OOO・新しい実在論NM関連) - otomeguの定点観測所(再開) (hateblo.jp)

2017年極私的回顧その16の3 思想・評論(思弁的実在論SR・オブジェクト指向存在論OOO・新しい唯物論NM・新しい実在論NR・プロメテウス主義/加速主義・ゼノフェミニズム) - otomeguの定点観測所(再開) (hateblo.jp)

2016極私的回顧その16 思想・評論 - otomeguの定点観測所(再開) (hateblo.jp)

 2020年、いわずもがなのコロナの情況において、従来の生活様式や生存のための条件に徹底的な見直しがかかった1年になったとされています。これら決定的な環境危機や価値の危機が訪れた際、マルクス・ガブリエルが主張するように、危機を駆動因として新たな道徳的規範を想像することが肝要であり、そして新たな規範の基となる哲学・思想の体系は、近年の新しい実在論、人新世、トランスヒューマン/ポストヒューマン、ハイパーオブジェクトなどの各種の展開によって、従来の人間中心主義を覆し、人ではないものからも人が生存するための術を学ぼうとする、問題の圏域として既に形成されていたと考えることもできるでしょう。

 というような問題関心に絡めて、2020年に極私的に読み飛ばした思想関連について雑駁ですがまとめていきます。

 

シェリング再読・再解釈】 

Philosophies of Nature after Schelling (Transversals: New Directions in Philosophy)
 

  マルクス・ガブリエルがシェリングに多くを依拠しており、また、イアン・ハミルトン・グラントの『シェリング以後の自然哲学』がその後のシェリング研究・再解釈に大きな影響を与えた、というのは周知の事実でしょうが、ここではグラントの『シェリング以後の自然哲学』の内容をまとめておきます。

 グラント以前にシェリングを自然哲学と解した先行研究が欧米にどれくらいあったのか、というのは浅学でよく分かりませんが、シェリングを自然哲学と解したグラントのシェリング理解は革新的なものだったようです。シェリングのテキストを断片的に自然主義と解するのではなく、シェリングの哲学全体を自然哲学として解するのがグラントのシェリング解釈であり、そのあり方はシェリングを分断的に解するガブリエルよりもシェリングの哲学に一貫性・唯一性を認めるものです。そして、シェリングの自然哲学は「有機的な自然」だとする従来のシェリング解釈をグラントは批判し、シェリングの解する自然とは事物化・モノ化されない自然であるととらえます。ポストモダン的な有機体の哲学は、一見すると人間を壮大な環境の中において客観視していますが、その実、生命や有機体という語で人間を言い換えているだけにすぎず、人間中心主義を脱するに至らない、というのがグラントの批判です。シェリングを介してグラントが還るのは、事物としての自然と認識された現象としての自然を切り離す(カント的な)二元の自然観ではなく、スピノザライプニッツ、そしてプラトンへと遡る、人間と事物に境を定めない汎神論的な一元の自然観です。グラントはドゥルーズの自然哲学理解に同調しつつも、同時にドゥルーズの超越論的な自然理解を批判しており、グラントのシェリング理解はギリシャ哲学的な無底化・無根拠化による存在論的な自然生成を重んじるため、ドゥルーズよりもプリミティヴな印象が強いです。ドゥルーズの解する世界は一元的なあり方を目指しながらも超越論的な視座が挿入されるものであり、徹底して一元的なシェリングの自然・世界とはやはり相違があります。

 グラントのシェリング理解においては個物だけでなくそれらの関係性までも自然であるととらえられており、この世界に自然ではないものは存在しません。しかし、それは人間と人ではないものとを等しく扱うということではなく、人間を特権化して人間中心主義に陥ることでもなく、人間の認知の固有のあり方を自然哲学に含めようとするものです。人間の思考もまた自然の連続性に包含されており、空間や運動といった諸概念もそこに接続されます。汎神論的な世界とその力動による存在の生成。極私的には、マルクス・ガブリエルはカントの系譜を受け継ぐドイツ観念論の哲学者だと思いますが、グラントはさらに遡った古典哲学を現代に展開しようとしているような印象です。宇宙や自然は人間の知識体系よりも先んじて存在し、人間が存在するか否かにかかわらず自然は存在し、人間が滅びても自然は存在します。しかし、人間が存在するからには、人間以前・現在・人間以後の自然について、人間がどう考えるべきなのかという哲学を構築する必要があります。それは政治的な主張ではなく、政治性の基盤となる自然概念であり、そこから人新世における自然主義や考える自然や自然を考える人間に対するアプローチが可能となるのでしょう。

 

実在論をもう少し拡張】

 しかし、このようなシェリング解釈を実在論的に揶揄するなら、思考する主体が主体の外部で主体に影響を与えながら主体に対して無関心なものに魅了されているだけであり、ある種のナルシシズムに過ぎません。地球自然においては、いまだ人間から切り離された自然や、人間の理解の及ばない自然現象が数々存在します。そうした自然現象は人間の認識理解に先立ちつつ人間の認識後にも生じます。人間主体が人間主体自身を忘却して無関心化しようとしても、人間が人間を脱中心化しようとしても、人間主体を実在論的に定めて認識の地平としなければ議論そのものが始まりません。自身の牢獄に閉じこもろうが、自身に由来・依存しないものに興味を抱こうが抱くまいが、実在論的ないし存在論的な思索は単なる思考の快楽に過ぎず、思考を貪る我々がここにある以上、主体の認識そのものに方向を定める認識、人間が実在することを前提とした議論に立ち返らざるを得ません。

 しかし、現在は実在する実在だけでなく実在しない実在も実在のように存在するため、実在しないが実在するかのように顕れるあらゆるものが私たちに実在として=であるかのように開けひらかれます。ヴァーチャルや虚構などあらゆる仮象や表象や対象が実在しない実在といえますが、実在しない実在には認識論的に明確に区別できる原理がなく、形容しがたいものや名状しがたいものの中から実在しないものを識別し選別するしかありません。この種の議論は排他的で理性的なものではなく包含的で感情的なものですが、実在論においては実在する実在だけでなく実在しない実在を含むあらゆる存在するものを包含され、実在論の射程が存在論的な射程へと拡幅されます。

 存在論から実在論的な射程を導くことは現代の存在論でも行われていますが、同様の射程はライプニッツなどにもあったことを考えれば、決して目新しいことではありません。存在論実在論においては実在そのものではなく実在することや実在であることについて思考することが肝要です。実在する実在であると当然のごとく考られる我々=主体=人倫=実存についても、実在する実在でありながら実在しない実在であるかのように存在することが実在的に可能であり、私たちが今-ここに-あることだけでなく私たちの存在そのものまでも射程に含まれます。実在しない実在が実在的に実在し実在的な実在が実在しない実在のごとく存在することについて語ることは、想像上や虚構上の存在について語ることと同義であり、存在論的な矛盾をはらんでいます。それはもはや主体における存在論ではなく主体が指し示すあらゆる対象そのものの様態を問う存在論であり、認識論の裏返しであり、内容ではなく対象を指し示す行為そのものが問題になります。 

社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発

社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発

 
機械たちの戦争

機械たちの戦争

 

 存在よりも対象を扱い現実には存在しない対象に関わる言説において、対象なるものは現実にー存在する=今ーここにーあるものよりも幅広く脆い観念です。思考し形容するという行為そのものが不可能的で矛盾をはらんでおり、不完全で抽象的な対象としてしばしば超存在ないし超越的存在として分類され形容されます。そのような対象は具象的でありながら抽象的であり可能的でありながら不可能的であり実在的な実在のようでありながら実在しない実在のようであり完全でありながら不完全であり、多様な襞に覆われた存在的・実在的(ときに存在論的・実在論的な)様態を有しています。このように異質な他者・多、多様な他者・多がーへーに開けひらかれるがゆえに、あらゆる存在を存在者を存在論的・実在論的に等価で平等なものとして扱うことができる。それがデランダやラトゥールらの導く存在者であり存在の様態でしょう。

 想像的な存在や虚構的な存在、実在しない実在は実在的な実在へと還元されてはなりません。実在しない実在はそれ自体として存在が担保されなければなりません。実在論においても存在論においても最も肝要なのはありとあらゆる存在者の存在様態やその様態があらわす実在や実在なるものが担保されることです。あらゆる対象は実在するのではなく実在するかのように存在する。対象を理想化したり蔑んだり特異的に扱ったり一般化したりするのではなく、対象を還元せずに存在的・存在論的に存在者として扱う。すべては実在的に今ーここにーある。結局、私の思索は未だハーマンのオブジェクト指向存在論(以下OOO)へと帰着しているようです。 

 

【そしてハイパーオブジェクト】

 しかし、OOOにおいてさえ対象から離れたある種の関係性やコミュニケーションについて論じざるを得ない場面は往々にあり、理論化もされています。ハーマンをはじめOOOの論者たちは対象と対象の関わりについてシステム的な説明から切り離そうとしていますが、うまくいっているようには見えません。人間やものだけでなく、人間と人間、人間ともの、ものとものの関係性までも存在論的に等価なものとみなしOOOよりもさらに存在論的に水平化された地平へと進む・・・かどうかは分かりませんが、特にエコロジカルな情況=環境においては関係性を重んじた論が重要だと思います。

Vibrant Matter: A Political Ecology of Things (John Hope Franklin Center Books (Paperback))
 
Humankind: Solidarity with Non-Human People

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  • 作者:Morton, Timothy
  • 発売日: 2019/01/15
  • メディア: ペーパーバック
 
Ecology without Nature: Rethinking Environmental Aesthetics

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  • 作者:Morton, Timothy
  • 発売日: 2009/09/15
  • メディア: ペーパーバック
 

 従来的に展開されてきた存在論、存在を生成するという流動体的なイマージュ、はあくまで人間的な視座に過ぎず、人ではないものが展開する存在論は全く異なった様態やイマージュを帯びるでしょう。しかし、我々はホモサピエンスであり、人間的な視座を超越することができなませんから、人間という様態を変形させて引き延ばして、人間が依存し創造し破壊し駆動している環境システムをーについてのより良い感覚や知見を得られればいいと割り切ることが大切です。このようにハイパーオブジェクトの前提となる議論をばっさり断じてしまうと、いろいろ怒られそうですが。

 ハイパーオブジェクトは時間的・空間的に極めて大規模で広範なものであり、ハイパーオブジェクトにおいては自分と対象とのつながりの意味や関係性を規定することが難しいです。そのため、人間が実在として全体の中に位置することについて可能的に思考するのは非常に困難です。例えば、環境問題や気候変動といった確率論的分析を受け付けない難事がハイパーオブジェクトにあたりますが、ハイパーオブジェクトを前にして我々は人間中心主義的な認識と高慢の崩壊を目の当たりにします。OOOによる人間中心主義に対する抵抗は、自己を修辞的に対象化したゲームのようなものであり、そこには人間中心主義を否定しようという政治的-倫理的な企図が働いています。OOOだけが人間中心主義に対するレジストなのではなく、同様のことは昔から唯物論実在論において広く行われてきました。

 結局、すべての身体、モノ、潜勢力、そして実在しない実在を含む実在のような諸々までもが相互に関係しつつ影響を与え合っています。多様な活力に満ちた世界に我々は生きています。これらの関係性、さらに背後に潜在する関係性がシステムや集合を形成しており、それらのシステムや集合は実在や実在のようなものと同じように影響を与え合います。システムは変化や進化を引き起こし、新たな個体を創造し、組み合わせを生み、情動を生みます。ベルグソンが見出したように、システム自体が駆動して創造的な変化を生み出すのです。 

  2020年、新型コロナが発生させたパンデミックは、人類が統御しえないハイパーオブジェクトと呼ぶべきものでした。玩弄に資本主義を固守して何もしないのか、ハイパーオブジェクトを正視せず居丈高に強がるのか、人類を客体化=統計化して医学的・防疫的な対策に特化するのか、一生活者として防御に徹して雑音の侵入を拒むのか。未だ様々なスペクトラムが揺れ動く中、自己を把持する技術と、情況に対応する力と、目の前の出来事を受け入れる謙虚さと、政治的・社会的・経済的な諸問題に対する構造的な考察と・・・様々な事象と我々の運命を結び付ける脈絡となる強靭な哲学・思想こそ、今、求められているのでしょう。